四国旅行ふたたび 1989年夏

「初めに言っときますが、今回は特につまらないですよ」

 

 平成最初の夏休み。待ちに待った青春18きっぷのシーズンがやって来た。毎年春夏冬シーズン前には18きっぷの利用開始期間が公開されるのを心待ちにされた方も多いだろう。今年はどこに行ってみようか・・・? 

1989年8月7日

 まず大垣夜行に乗車するため東京駅に向かった。お盆まであと1週間あるが、18きっぷ利用期間になると座席の争奪戦になることは承知していたので、発車の2時間以上前の21時ころ到着。昨年末乗車した時は5時間前でほぼ先頭組に並ぶことができたため、着座できればそれでよいと思い、この時間になった。列並びでは10番目程度。相変わらずブルートレインや通勤電車が同じホームにひっきりなしにやって来て、その度に大混雑になるので、食糧調達やトイレでの列離れは許されない。待ちくたびれてようやくやって来た165系大垣夜行。22時過ぎに東京に到着する静岡発の165系普通列車の折り返し運用として運転され、逆の上りの大垣発夜行は折り返し東京発静岡行きの急行「東海」としてねぐらに帰ってゆく運用が長年続けられてきたが、18きっぷシーズンにはさらに需要が増加することから、1990年代に入ると、線路容量に余裕のあった品川の臨時ホームを使用した臨時大垣行き、通称「救済臨」が設定されるようになる。救済臨には神領電車区や田町電車区の波動用の165・167系が駆り出され、原型大型ヘッドライト装備の神領T8編成、角型ライトの167田町車などが充てられることもあり、さらに全編成国鉄色を纏っており、昔の夜行列車の風情を、安く日常的に気軽に体験できることからファンからは「ガキヤ」と親しまれ、大垣夜行の黄金期を迎えることになる。

 さてそんなことはさておき23:25。大垣夜行375Mは定刻に東京駅を出発。品川を出ると毎度恒例の車内検札が始まった。ご存知の通り青春18きっぷは0時を過ぎて初めて有効となるため、0時を過ぎて最初の停車駅である横浜までは別に乗車券が必要だった。18きっぷを2枚通しで使う場合はいいのだが、首都圏のテツが旅の第一歩として大垣夜行に乗るためには数百円の課金が必要であり、それを見逃さないため期間中には毎回検札が行われていた。すでにこのことは周知されていたため、追加料金を請求されるドジっ子も皆無でスムーズに検札は進められて行った。

 翌朝大垣に到着すると通称大垣ダッシュで乗り換え経て米原。さらにそこから新快速で姫路へ。自分も含めて多くの方が体験したであろう関東テツ「18きっぷ最速関西ルート」で西を目指したのだった。




この旅最初の1枚。もっと記録しておくべきことがあっただろうに、といつも今になって猛省する。新快速車内から追い抜く山陽電車を撮影。

 姫路で6分の乗り換えののちさらに西へ。1時間ほど揺られ和気駅に降り立った。当時現役であった片上鉄道の起点ではあるが、その乗車のためではない。さらに西に行く列車の始発だったからだ。12:19和気出発。列車は当時直流区間ならどこにでもいた115系電車。そして非冷房車。真夏であったため、どの席も窓全開で心行くまでに夏の空気を楽しむ。市街地ではウトウトしたり、郊外では田んぼの匂いに懐かしくなったり、トンネルではヒヤッとしたり、それはもう飽きるなんてことは全くできなかった。その中でも特に印象深いのは尾道付近の瀬戸内海沿いで、穏やかな海に浮かぶ大小さまざまな島と、そこに根差した生活の匂い。心地よい海風に吹かれながら子供心に非常に感動した記憶が今でも深く残っている。そんなこんなで和気から乗り続け、ようやく降りたのは今回の目的地、広島県、宮島口駅だ。時刻は16:11。確か岩国行きとかだったと思うので、なんと4時間以上も走破する普通列車だったのだ。

 宮島口で下車した理由は「宮島連絡船」。 1987〜1988年の廃止フィーバーによって青函連絡船にすっかり魅了されてしまった自分。宇高連絡船は乗れずじまいだったので、せめてもう一つ、そして唯一残った旧国鉄連絡船を体験したみたかったのだ。とは言ってもあちらは本土と本土を結ぶ大動脈である鉄道連絡船ではなく、こちらは距離1km程度の島を結ぶ航路。まして宮島という一大観光地に向かう観光船といった性格だが、「鉄道連絡船である」、ということだけでこの宮島航路に浪漫を抱いていたのだ。

 駅前の道路を数百m歩くと連絡船乗り場があった。当然JRの路線でもあるので現在と同様18きっぷは有効である。乗用車も航走可能な200t級の小さなカーフェリーで、2階に客席が備わった内海用の船体だった。




みやじま丸




みせん丸




ななうら丸

 ほぼ同スペックの3隻がこの短い航路に就いていた。船体カラーは赤で統一されているが、よくよく見ると、みやじま丸=赤 みせん丸=青 ななうら丸=緑と、個体ごとに煙突の色が異なっている。現在も同じ名を名乗る3隻が就航しているが、こちらは2000年代になって登場、港内での転回が必要ない双頭式の世代である。船内は夏休みであるにも関わらず閑散としており、のんびり2往復程度楽しみ、本州側へ戻って来た。




桟橋での記憶があまり無いが、簡素な乗り場から岸壁から直に乗船していたと思う。

 宮島航路を楽しんだあとは東に戻る。JRの宮島口駅に隣接する広島電鉄の駅から発着している路面電車を見ていると乗りたくなってしまい、わざわざ課金してまで広電で広島に向うことにした。




広電宮島口駅で出発を待つ広島行き。

 広島駅から山陽本線普通列車に乗り換え、2時間ほどで岡山駅へ。最終1本前のマリンライナーで四国に渡り、高松に23:52に到着した。ここ高松に降りた目的は、当時残存していた松山・高知行きの夜行普通列車に乗るためではない。現在は航路自体が廃止されている24時間運航の宇高国道フェリーで往復し、夜を明かすためだ。普通夜行列車で四国島内をぐるっと巡りたかったのだが、金銭的、日程的に諦めたのだった。さて駅からほど近い高松港へ向かい、往復乗船券を購入。船内に入ると悪趣味な金キラの豪華絢爛?な内装の新造船だった。




世はまさにバブル真っただ中。一方で夜行便の乗船客は自分含めて片手で数えられるほどだった。

 乗れずじまいだった宇高連絡船に思いを馳せ宇野港へ出向。ガラガラの船内の長ソファーで横になるがわずか1時間ほどで宇野に到着。今日もほとんど何も食べていなかったので、港の近くにある屋外の自販機でカップラーメンが売っていたので購入。喰い終わり空容器を捨てようと自販機横のゴミ箱に近づくと、周辺には、見たこともないほど巨大な黒い甲冑をまとった生物が大量にうごめき合っていた。恐らく彼らにとっては自販機の中は暖かく出入り自由だったはずで、食前にこの光景を見ていたらとてもカップラーメンを口にすることは無かった。1時間ほど宇野港の待合室で時間を潰し、再び高松行きへ。結局3時半頃には宇高往復は終わってしまったので、港の待合室で2時間ほど間を取り、高松駅に向かい駅舎が開くのを待った。

1989年8月8日




構内に入ると岡山行きマリンライナーが待機中。今は亡きクロ212は当時流行していたハイデッカー構造のグリーン車。移転前の高松駅。

 長い長い夜を過ごし、この旅の目的第2弾。50系客車列車に乗車する。当時でも50系を使用した客車列車が土讃線や、これから乗車する高徳線に極わずかに残されており、その列車が高松 5:30発 321列車だった。




高徳線用ホームに鎮座するDE10+50系の編成




栗林付近の高架から。屋島から太陽が昇って来た。

 ドアが閉まり、客車ならではの、ゴトリと動き出すまでのインターバルを感じながら、駅を出るとすぐに線路は左へ急カーブし徳島方面を目指す。現在では特急で1時間ちょっとの道のりを2時間半ほどのんびり走り徳島到着。徳島駅周辺で2時間ほどブラブラ時間つぶしをし、牟岐線を全線走破する海部行きに乗車。18きっぷシーズンなのに単行のキハ40は満員の乗客を乗せて南下し始めた。幸いに乗車口で並んでいたため海側窓際前向き席をゲットできていた。乗車した車両は冷房搭載。この年の夏の高温ぶりは覚えていないが、まだ猛暑、とか酷暑という言葉が無かった時代。それでも真夏ではあるので冷房の恩恵を受けたいところだったが、前のボックス席のテツ集団が、「暑い暑い」と窓を開け始めた。そしてそこから逃げる冷気。他の乗客たちも次々と窓を開け放つという負の連鎖が始まった。昨日の山陽本線では車窓から入って来る海風が心地よかったが、今や車内は蒸し風呂状態だ。過去の気温を調べると、この日の徳島市の気温は30.3℃とのこと。いや、なんかもっと暑くてとくにかく苦痛だった記憶がある。地獄のような車内で2時間40分ほど過ごし、当時の牟岐線の終点、海部駅に到着した。

 海部は1973年鉄道建設公団の手で牟岐から延伸した区間で新しく、室戸岬を経由して御免に抜ける阿佐線の一部として完成した。国鉄財政悪化の頃には各地の建設中の路線と同様に工事中断となったが、この訪問の3年後には完成されたまま放置されていた海部〜甲浦までが阿佐海岸鉄道として開業。2021年になって国内初のDMVが運行を開始した路線として知られている。

 当時、まだ子供だった自分は全国の未成線に興味があり、国土地理院地図で白い破線=工事中路線で描かれている国土地理院地図を所有していたため、海部でその様子を確かめるつもりだった。




海部駅に到着した列車。現在では2面2線になっているが、当時は棒線の終着駅。かの有名なトンネルも背後に見える。




甲浦方面。路盤とトンネルが見える。ここから先、開通するのは3年後だ。

 海部駅での折り返しは26分しかなかったため、未成線調査まではできなかったが、まさかこの建設、放棄された路盤を復活させるなんてこの時は夢にも思わなかった。さて再び暑い車内の乗客となり、徳島より少し手前の南小松島で下車。今冬と同じく港を目指して歩き、南海フェリーで夕方、和歌山上陸。以前は和歌山駅まで深夜のため足が無く1時間以上かけて歩いたのだが、今は電車が動いているので南海で和歌山市、紀勢線支線で和歌山へ移動。阪和線で天王寺までやって来た。

 今日はいつか乗ってみたいと思っていた新宮夜行に乗車し夜を明かす。当時数少なくなっていた普通夜行列車だ。晩年は新大阪発に変更されたが、1989年は天王寺の頭端ホームから出発していった。この列車は大垣夜行と同様、下りの帰宅列車としての役目もあり、座席確保のため2時間前くらいから並び始めていた。6両のうち3両は紀伊田辺かどこかで切り離されると記憶しており、並ぶ位置に注意して入線を待った。




新宮夜行こと922Mになる回送列車がやって来た。日根野電車区の165系は2002年に引退した。

 23時ちょうど。天王寺出発。車内は席は全て埋まり立ち客のサラリーマンが多い印象。彼らは駅停車ごとに下車していき、和歌山に到着するころにはボックス席に足を投げ出されるほどになった。

1989年8月9日

 この165系の写真が最後だった。翌朝5:01に新宮に到着。キハ58に乗り込み美しい海岸線を見ながら寝足りなかった睡眠をむさぼる。長距離普通列車がゴロゴロしていた紀勢本線。この列車にも4時間以上乗車し津で下車。最後にメシをいつ喰ったのかも思い出せないほど腹が減っていたので、駅構内の立ち食いで伊勢うどんを喫食。黒いドロッとした少量のつゆに極太麺で、初めて見る未知な食べ物に驚いたものの、どんな味だったか記憶が無いが多分空腹だったからウマかったのだろう。津からは接続が良くなかったのか、理由は今となっては不明だが近鉄に課金して名古屋へ向かう。このまま東海道本線で帰還してもいいのだが、せっかくなので初乗車の中央本線経由で東に進むことにし、地元の関東に戻って来たのは21時頃になった。

 金は無いが時間だけはあったあの頃。今となっては情報を事前に集め、もっと体験しておくべき路線、車両はあっただろう。でも当時は時刻表で空想し、行きたい場所に行っていたことで貴重な体験をしたと子供心に満足していた。またあのような新鮮な気持ちで旅がしたいものだ。