幼稚園〜小学校低学年

自覚症状は現れず。ただ電車に乗るときは当然、前展。運転席後にかぶりつき、マスコンの動きに胸ときめかせていた。小学生男子なら誰もが通る王道を進む。


小学校中学年

発病。 3年生の頃、テツ自覚症状のあった仲間数人と地元の私鉄に興味を抱く。よくありがちなパターン。京急、東急、小田急、相鉄など近場の大手民鉄が主な対象。特に当時登場したばかりの京急2000形はそのスマートさと、在京民鉄にはない通勤特急仕様という孤高の存在から、我々の中では神と崇めていた。また少ない小遣いを持って書店に行き、ヤマケイの私鉄ハンドブックと言う、民鉄のバイブルを手に入れては、内容を暗記するほどまでに読み込み知識を競い合っていた。放課後や日曜日、初乗り切符を買って「京急で浅草線抜けて京成で千葉までいったぜ」とか「オレは東急完乗した」など違法行為を繰り返し自慢し合っていた。しかし不思議なことに国鉄には興味は全く無かった。


小学校高学年

4年生の頃、祖母からペンタックスの一眼レフを譲り受け、写真を撮るようになる。撮影とはいってもほぼ駅撮り。また小学校高学年になると数人の友人がNゲージを手に入れて、見せびらかしが横行するが、我が家はなかなか買ってもらえず、「勉強するから!」とこれもありがちなパターンでようやく親を説得し、一番シンプルで安いセットだったが念願のNゲージを手に入れる。しかし2年ほどでやっぱり実物にもどり、模型テツにはならなかった。やがて当時、絶頂期であったローカル線ブームに、小坊ながら染まりだす。時刻表を買って地交線のページで萌えたり、図書館でローカル線の写真集や、宮脇俊三先生の本を借りては脳内旅行を繰り返していたが、当然の成り行きで次第に現実に旅をしたい欲求に駆られるも、小学生だったので経済的に断念。脳内旅行は2年に及ぶ。


中学校

中学1年の夏、お年玉や小遣いを貯めてようやく念願の北海道旅行に出た。今は亡き急行八甲田、青函連絡船、道内の夜行急行を寝床にして7日間、北の大地を巡った。この旅は今でも鮮明に記憶に蘇るほどで、初めて見る車両、ローカル線と休む間もなく乗りテツ三昧。強烈な体験となって心に焼きついた。中学1年の3月、トンネル開通により廃止になる青函連絡船日帰りツアー、2年の3月に長大3線と言われた天北線、標津線、名寄本線のお別れ乗車のため3度目の渡道。2年の1月に初めて青春18切符で四国旅行。3年夏に18切符で2度目の四国旅行。全財産を旅行に充てていた。当然慢性的な金欠状態なので、旅行中は1日1食の断食を常套手段としていた。写真を撮るのが目的ではなく、ひたすら未知の土地のローカル線を乗って楽しんでいた。


高校生

高校の入学祝に中古のVHS-Cのビデオカメラを買ってもらい、動画撮影も始める。高校に上がるとすぐにバイト開始。時給¥630のコンビニで働きまくって旅行資金を稼ぐ日々だった。夏休み前には憧れの一眼レフEOS630を入手。夏休みなどの長期休暇には毎回18切符で旅をするようになる。高校2年の冬、原付免許を取得し、ついにバイクテツの道が始まった。今までは列車移動の撮影だったので駅間の撮影は入念に事前に下調べをするか、闇雲に勘で降りた駅からひたすら撮影地を探して歩く、リスキーな徒歩テツが主体だったので、バイクという移動手段を手に入れ格段に動きやすくなった。またこの頃からバイク、列車移動問わず寝袋を持って旅をするようになったため、以前では不可能な早朝の撮影も、現地に前泊して駅寝→即撮影ということも可能となった。こうして新しい撮影スタイルを手に入れ、先ず旅立ったのは最後のキハ82の砦、特急「南紀」撮影。翌年高3の夏に北海道ツーリングで、その機動力をいかんなく発揮し、存分にバイク+テツ+野宿のスタイルを楽しんだ。高校3年の冬に自動二輪免許中型限定(当時呼称)を取得。しかし自動二輪を買う余裕などもなく、ゼロハンを黄ナンバーに変えて走っていた。


暗黒時代

そんな幸福な時代も束の間。バイク、とはいっても原チャリの改造と走り屋に目覚めてしまい、3年ほどテツ活動から一切遠ざかる。この頃から大学時代にかけて、廃止される路線の最終列車に乗る「葬式テツ」の道に走っていたこともあった。90年の大社線を皮切りに、92年岩手開発鉄道、94年野上電鉄、95年深名線、97年大嶺支線、信越本線碓井峠、98年南部縦貫鉄道、99年新潟交通、2001年下北交通。いずれも撮影というよりはお別れフィーバーを楽しむというのが主な目的であったのかもしれない。


大学生

生活も安定してきて、しばらく遠ざかっていたテツ活動に復帰。大学の夏休みには連泊長距離ツーリングに毎年旅立っていた。2年の夏についに250ccのバイクを購入し、行動範囲が以前に増して広がる。東北、北海道、2回の日本縦断ツーリング。しかしツーリングと野宿に重きを置いていたので、テツ写真撮影はほとんどついで程度。今考えれば惜しいことをしたと思うのだが、この頃確立した長距離をいかに安く快適に過ごす様々な手段は今現在でも役立っている。例えば真夏の野宿時の虫対策、自炊方法、緊急時の対処方法等等・・・。大学1年の時購入したEOS55と安いズームレンズ、そして8mmビデオにデジタル録画する「デジタル8」という怪しい規格のビデオカメラで、当時の自分なりに鉄道撮影を楽しんでいた。この所持している機材をフル活用して、少ないながらもまだ全国に残っていた国鉄色の撮影をメインに活動を開始。またネガからリバーサルに転向しようと、しばらくの期間はポジでの撮影に傾倒したものの、コストパフォーマンスの観点から、また「お手軽お気楽」がモットーである自分にとってはネガ撮影で充分であるという結論に落ちついた。


就職

新卒として、県内の弱小写真用品チェーン店に就職。DPEやカメラ、写真用品を扱う仕事に就いた。職業柄、今までに増して写真を撮る機会が増えた。経済的にも余裕が出来てきたので、この頃から仕事終り→深夜の高速道移動→写真撮影→日帰りという現在でも続くパターンが確立した。しかし2日以上の長期休暇を取れない会社であったので、学生時代散々楽しんだ長距離ツーリングに出る機会が全く無く、悶々とした日々を過ごしていた。2003年の春にEOS10Dを購入して銀塩生活にピリオドを打ち、さらに今まで撮ってきたネガを会社の業務用機器を使用して1年がかりでデジタル化を完了したが、ボーナスも出なく昇給の見込みも全く無い見通しのつかない会社だったので、入社1ヶ月目にして転職を決意。リクナビを駆使し地道な就職活動を経て3年目、学生時代バイトをしていた現在の企業に転職が決定した。前職退社から現職の入社までの1ヶ月間、無職状態であったので、今までの3年間ぶんのうっぷんを晴らそうと前代稀に見る猛烈なテツ活動開始。中央西381、九州キハ66国鉄色。山陰キハ181国鉄色、国鉄色キハ58。石北臨貨など行きたくても行けなかった路線を制覇し、濃い1ヶ月を送った。


現在

現職では年2回ほど一般の人と同様に長期休暇を取れるようになったので、それを目標に日々精進する毎日。あとは1,2日の公休を利用して深夜、高速道移動で500km圏内の撮影に出かけている。今が一番幸せかも・・・。

今後のターゲット
@久留里線キハ30国鉄色
A石巻線DE10貨物
B上り北斗星を金谷川、下りあけぼのを羽越線で朝連
C東北、常磐線のED75
D高山本線国鉄色キハ58をもう一回
E城端線、氷見線、高山線などの富山地区のDE10貨物
F中央東線で115スカ色
Gキハ181はまかぜに乗りテツ
H釧路地区のキハ40タラコ色
・・・そして! I宗谷本線DE15ラッセル

民鉄では京急1000形、長電2000系・・・

まだまだ死ねません。できるだけやってみるつもりです。
これらの列車がなくなってしまう1〜3年後、自分は一体何を撮って何を生き甲斐にして生きているんだろう。昔の事を思い出し183でも細々と撮っているんだろうか・・・?


ここまでお付き合いくださいましてありがとうございました。