京急の未成線をしっていますか? 京急武山線

(注:情弱なド素人が記述しています。思い込み、曲解など多々あるかと思いますが、生暖かく見守っていただければ幸いです。)

【解説編】

 品川から三浦半島方面を結ぶ、誰もが知っている京急電鉄。他社にはない独特な運営の哲学であったり、それによって誕生した個性的な車両たちで、多くのファンを魅了してきた大手私鉄だ。その京急がかつて建設も着手した未成線があることは、あまり話題にならない。油壷延伸計画のことではない。国鉄横須賀線「衣笠駅」から三浦半島を横断して西海岸にある「林」地区を結ぼうとしていた「武山線」という路線だ。時代は太平洋戦争真っただ中、そう武山線は林地区にあった陸軍施設の第二海兵団へ人員、物資を運搬するための軍用路線としての建設だった。しかし昭和20年に太平洋戦争が終わると、その目的は失われ、当時人口稀薄地帯であったこの地に新線を完成させる目的はなくなり、建設を中止、今に至る。しかし高度成長期、東京や横浜のベットタウンとして沿線人口は急増。現在、武山線沿いに走る京急バスはラッシュ時では1時間あたり10本程度の高密度な輸送をしており、もし武山線が完成していれば、相当に重要な生活路線になっていたことは想像に難くない。

 以上の内容はウィキペディアにも記述があることなのだが、そんな便利なものなど無かった、自身学生時代、未成線探索の名著、「鉄道未成線跡を歩く」にてこの武山線のことを初めて知り、衝撃を受けた。幼き頃から読みふけっていた京急に関する文献には、武山線については一切触れられておらず、最も身近だった鉄道でもある京急にこんな歴史があり、しかも建設まで進んでいたことに衝撃を受け、急速にその路線に興味を持ち、当時黎明期のインターネットで調べたりもしたが、情報はほとんど皆無であった。実際「鉄道未成線跡を歩く」でも2ページ程度の記述があるのみで、現状はどうなっているのか、当時一度だけ現地を訪れ、かの記事にもあった唯一の遺構として残っているという、武山地区の築堤跡を記録に残しておいた、と思ったのだが、改めて今回その画像を探したのだが見つけることはできなかった。

 武山線は国鉄横須賀線衣笠駅から三浦半島西岸にある林地区を結ぶ延長6.1kmの計画路線であった。武山線建設が決定されるさらに以前には、すでに開通済みの湘南電鉄逗子駅(現京急逗子線 逗子・葉山駅)からさらに南下し、三浦市までを結ぶ三浦半島西部線の支線として計画されていたのだが、西部線計画が立ち消えとなってから着工された武山線は、京急のどの路線にも接続しない孤立路線となることになった。ウィキには京急と同じ軌間1435mmとの記載があるが、起点を、同時期に開業したばかりの横須賀線衣笠駅に接続し軍需輸送を行う性質から、貨車などを直通させるべく国鉄と同じ1067mmでの予定だったのではないかと個人的には考える。線路は衣笠を出ると横須賀線から右、つまり南西へ進路をとり萬年山トンネル、衣笠トンネルを通過すると最初の停車駅「大矢部」駅。西進して金子(かなご)トンネルで半島の脊梁部を越えて路線名となった「武山」駅に到着。あとは現在の県道26号線、三崎街道の南側を並走し西海岸側の終点「林」駅に到着。林駅は現在の林交差点の南側に建設される予定とあったが、詳細な位置は調べることはできなかった。また途中3つのトンネルのうち衣笠、金子の両トンネルは、建設中止後、拡幅の上、道路トンネルと転用され今も現役で存在しているのは知られているが、萬年山トンネルは未着工だった模様。橋梁は合計11か所、他にも連続した築堤で構成される予定だったようで、用地取得、および建設済み区間は全線の1/3程度。末期の鉄建公団のAB線ほどではないが、各所で工事は進められ、昭和30年代には沿線に数々の遺構を目にすることができたようだ。しかしこの後の急激な都市開発、宅地造成が進められ、建設中止から80年近く経った現在でも残るのは、先に述べた2つの道路転用トンネルと武山駅〜林駅間の極わずかな築堤の一部とのこと。元々文献の少ないこの路線。他にも何か遺構はないか、早速現地を訪れてみようと思う。

・・・とその前に、武山線の正確なルートはどこなのか、自身が把握している情報と考察を整理する必要がある。


【考察編】

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@まず、動かせない構造物の衣笠・金子の両トンネルは拡幅の上、道路トンネルとして現役なので、ここは確定(これは史実)。両方とも、上下別の並列のトンネルだが、グーグルマップで見ると、衣笠トンネルは鉄道→道路に転用したと思われる断面の狭いほうがほうが北側、金子トンネルは南側なので、この間どこかで並走する県道26号を跨いでいた可能性がある。
Aところで起点の京急の衣笠駅であるが、文献では現在の京急バス車庫付近になる予定だったとある。ここから横須賀線と並行して武山線の衣笠駅を設け、場外から右へカーブし金子トンネルへ向かうと(赤の点線)、トンネルの向きが不自然だ。グインッとトンネル手前で進路を修正しなければ不可能であろうし、一方トンネルの延長線が予定線(オレンジの点線)だったとすると、横須賀線と自然に合流させるには、これまた相当に急なカーブで構内に進入しなければならない。どっちだ・・・!?
B衣笠トンネルと金子トンネルの間は矢部川によって出来た低地が、駅設置予定だった大矢部地区となるが、衣笠トンネルと矢部川周辺の標高差はわずか300mの距離で25mほどあるため、一般的な鉄道の急勾配とされる25‰の築堤で下ったとしても、高さ20m近くあるかなり大規模な築堤と橋梁で矢部川を渡り、再び金子トンネルに向けて登り勾配に向かっていったと予想される。
C最後の金子トンネルを抜けて地平に降りるとすぐに武山駅予定地だったようだ。現在大きなスーパーの敷地になっている。(これも史実)
D県道沿いの「武山市民プラザ」という地区センター裏手に、数少ない遺構である築堤の一部が現在も残っていると「鉄道未成線跡を歩く」に記述されていたが、それも発行が20年以上昔であるので、現在は分からない。自身も遠い過去訪問して写真を取った記憶があるのだが、それらしい草むらがこんもりと続いていただけのように思う
E終点、林駅はどこが予定地だったのか? 軍需関連輸送という命題を持っており、直接海兵団(現在:陸上自衛隊武山駐屯地)敷地内に乗り入れていたのか、それとも途中駅があることから一般乗客も考慮して敷地外に設置される予定だったのか。文献では林交差点南方とだけあり、この路線の終端部については非常に興味がある。

 以上のことから、この地域の地形図、航空写真をいくら調べても、「らしい」痕跡すら見つけることはできなかった。では昔の航空写真では・・?1960年代まで沿線で遺構がいくつも見られたという証言から、当時の航空写真も確認すると、すでに沿線では宅地化が進んでおり、廃線や未成線跡によく見られる、「不自然な連続した土地」とか「緩やかにカーブした道路、または土地境界」なども判断することはできなかった。では工事が中断したとされる1945年前後ではどうだろうか? 時代も時代であるので不鮮明で、かつ縮尺の小さいものばかりで、見えるような・・?見えなくもないような・・感じだ。
 
 そしてついに素人調査の限界を感じたその時、新たな航空写真を発見した。1946年アメリカ軍によって撮影された画像である。太平洋戦争に勝利した連合国。アメリカはかつての敵国を占領下に治め統治を開始。当然詳細な国土の調査が必要になることから撮影されたのだろう。流石は当時の一流国。そこにはまさに欲しかった情報が80年経った現在に鮮明に語りかけていたのであった。

では、刮目せよ!!


【解説編】


【1】衣笠駅付近

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 2年前(1944年)に開業したばかりの国鉄衣笠駅が画面上部に見える。駅周辺は現在と同様市街地が形成されているが、少し離れれば林野がほとんどを占めている。お解りだろう、矢印の先に注目していただきたい。鉄道らしい緩やかなカーブで道筋のようなものが、90度進路を変えて西海岸を目指す態勢になっているのがハッキリ見て取れる。なので先述した赤色の点線のルートが正解。衣笠トンネル手前でギュワン!と角度を変える予定だと考えられる。そしてこの場所は上から4つ目の矢印付近で起伏の激しい丘陵地帯になるのだが、それを克服するかのように直線で自然を切り開いている様子も判る。恐らく切通し開削のための準備工事なのかも知れない。ちなみに★印は現在の京急バス車庫で、武山線路盤の延長線上と微妙な位置にあることから、バス車庫=武山駅衣笠駅の説は少々疑わしい。

【2】大矢部駅付近

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 【1】の写真の続きである。現在の県道26号は当時すでに完成していたので、現在の位置関係が把握しやすく、武山線の路盤を追うには大いに助かる。起点から最初の萬年山トンネルの南側坑口までのアプローチらしきものは画像上部にチラリと見えるものだけのようなので、未貫通もしくは未着工だったのかもしれない。さてその先は開通済のトンネルを流用したとされる2本目の衣笠トンネルだ。この区間はほぼ県道に沿って敷設されようとしていたらしく、道路との境界が曖昧だったりもするのだが、大矢部駅予定地と思われる場所はかなり大規模に整地されているように見られ、先述した大規模な築堤を築く予定のための敷地かもしれない。

【3】武山駅付近

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 これも【2】の写真の続きである。金子トンネルを抜けた線路はしばらく県道と並走したあと分岐し、すぐに駅構内に相応しく徐々に広がっていっている。是非原寸大でもご覧いただきたい。ここがこの路線の名称となった武山駅予定地である。ちなみに現在この地域は山の付かない「武」が行政上の町名であるが、この付近には武山小・中学校、武山団地、武山市民プラザ、武山駐屯地、武山○○病院・・・、事業所でも(株)武山○○など数多くある。そもそも武山とはこの地域の南に存在する標高206mの低い山であるが、三浦半島で最も高い大楠山でさえ241mなので、この地区では恐らくシンボル的な存在の山なのだろう。ところでもう一つ着目したいのが武山駅から西方に向かう線形だ。一旦県道から離れて大きくS字カーブを形成するように進路をほぼ南に取るべくカーブしている。その先の小川(南武川)を越える前後は未着工のようで全貌は掴めないが、一般的な鉄道が標高を稼ぐためのカーブのように見て取れる。実際武山駅予定地の標高は40m。終点の林付近は沿岸部であり5mほどなので、標高差は35m。武山駅予定地付近から終点の林付近まで、現在の県道では2.5kmとあることから算出すると14‰の平均勾配になる。一見大したことのようないように考えられるが、平坦区間も林市街地付近ではそれなりにあっただろうし、勾配に強い電化でされるとしても、軍需輸送の観点から貨物輸送も当然考慮されてきたはずで、勾配緩和のための措置だったと思われる。その大げさなカーブを経て南武川を渡り、対岸に到達すると再び路盤が出現。しかし20m程度で県道ギリギリまで迫った棚田によって再び消失。100mほど未着工区間の後、明瞭な建設済み区間が復活する。ここが現代でも残ると言われている築堤ポイントだ。こちらも原寸大で確認していただきたい。

【4】林駅付近

 この机上調査で最も衝撃を受けた航空写真は最終目的地、ここ林駅周辺だった。どのような形で終点を迎えるのか、陸軍施設にどのように進入していくのか、とても興味のそそられるポイントだ。

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 国道134号と県道26号が到達する、現在でも半島西部の交通の要所。林地区である。画面左の陸軍施設以外に一般の建造物は疎らにある程度。その集落と海兵団を隔てる国道134号の東側に沿って広くなった敷地が確認できる。ここが終点「林駅」と思われる。この細長い敷地の突き当りにある道路も現在と変わっていないようなので、駅予定地の場所の特定も容易にできそうだ。また画面右上から続いてきた線路予定地も、中央上部ではただの白線になっており、原寸大で確認すると、建設のための整地がなされただけの空き地のように見える。そしてその白線が途切れた少し先には、林交差点の三叉路を迂回するようなカーブも見て取れ、スムーズに駅構内に進入させるつもりだったのだろう。ではそこから先、どうやって軍施設に線路を引き込むつもりだったのか。衣笠よりやって来た列車は林駅構内に入った後、スイッチバックして国道を斜めに横断し施設内に入る計画だったとすると、並走する国道134号が林交差点以北すぐに左にカーブしているため、線路もその内側を無理やり通らなければならず、またそこには施設の正門もあった訳で、そこを突っ切るように敷設されるとは考えにくい。なので反対に構内南側の先に国道を横断する専用線が続く計画だったと予想することもできる。一応付近の当時の航空写真も綿密に観察してみたが、国道を斜めに横切る線路や、施設内の工事跡は一切確認できなかったので、着手する前に戦争が終わったのだろう。

と、全貌が分かってきたところで武山線予定地を現代の地図に落とし込んでみよう。

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 いかがでしたでしょうか? 伝え聞いていた1/3程度の工事着手どころか、ほぼ全線の行程で何かしらの跡を確認することができた。さて概要もわかってきたことだし、いよいよ現地へ向かってみようか。残されている遺構といえるものはほぼないので、古い航空写真のコピーを持って実際の風景と重ね合わせ、80年前を想像してみるのも楽しいかもしれない。5月というのに各地で夏日となったある日、バイクで起点となった衣笠駅に向かった。


【現地調査編】

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@地点 横須賀線衣笠駅。1944年開業当時のとても重厚感のある駅舎が現存している。駅舎は線路の北側に位置しているので、武山線の乗降用ホームを設置するのであれば、駅改札を入り横須賀線ホームを地下通路でくぐったその先にあったはずだ。もっとも他社線にあたるので、国鉄の駅舎の隣りなどに武山線駅舎を設ける予定だったのかも知れない。



A地点 京急バスの車庫。左奥に横須賀線のガードが見えるが、武山線はこの県道を横須賀線と並行して越え、右奥の白いバスの後ろ付近で、急な右カーブを描いて進路を南西に取り、最初のトンネルである「萬年山トンネル」を目指す。



B地点 現在は住宅密集地になってしまった、横須賀線から分岐しこの辺りで弧を描き最初の山越えに向かう。画面右奥が衣笠駅。



C地点 先ほどの住宅地の南の谷頭に山の斜面を利用した小さな公園がある。地形も全く変わっているだろうから、推察の域を出ないが、カーブを描きながらこちら側の山にどこかで突っ込んでいたのだろう。ただ米軍の航空写真では、この付近が萬年山トンネル坑口ではなく、切通しのように開削されれているように見える。後年大規模に埋められてしまったのかも知れない。



D地点 かつて存在していたと思われる切通しを抜けて、いよいよ萬年山トンネルへ。しかしここも地形が変わっているためか、全く判然としない。矢印の奥のほうにトンネル北側坑口の地点のようだが、航空写真で確認すると取り付け工事が始まったのか微妙なところのようなので、3本のトンネルの中、ここだけが未着工だった可能性がある。



E地点 衣笠トンネル北側坑口。拡幅されて鉄道トンネルの面影はないが、坑口左右が切通しなのでかなりえげつない急カーブでトンネルに突入する。ちなみに考察編で断面の狭い右側のトンネルが鉄道用ではないかと述べたが、それは誤りであった。



F地点 大矢部駅を出発した路盤は金子トンネルに続く長い坂を登る。写真奥の青看、高速の高架橋の下付近が大矢部駅設置予定だったと思われる。(2023年1月撮影)



F地点 振り返って撮影。あの切通しの先に金子トンネルが控えている。



G地点 金子トンネル北側坑口。緩やかな登り勾配でサミットのトンネルに到着。



H地点 武山駅予定地はショッピングセンターになっている。建物付近が構内になるようだった。地形的に駅舎は手前側になるので、この駐車場は駅前通りか小さなロータリーになっていたかも知れない。



I地点 ショッピングセンターの立体駐車場から金子トンネル南坑口を望む。トンネルを抜けると緩いカーブを描いて坂を下り、武山駅構内へ入ってきたはずだ。さて武山を出ると航空写真でも不明瞭な区間がしばらく続き、いよいよ唯一の遺構といわれる、武山市民プラザ裏の築堤跡になる。



J地点-1  画面右が終着林駅方向。言われなければ分からないような、造成されず取り残されたただの繁みに見える。木々が繁茂し過ぎて元の地形が分からないので正面に回ってみよう。



J地点-2    確かに・・・築堤のような台形の盛り土が確認できる。高さは5m程か。海辺の林駅に向かって徐々に高度を下げて行くのだろう。



J地点-3    築堤の上に登ってみると生活道路の一部になっていた。奥が衣笠方。反対の林方は先ほどの写真のような雑木林になっており、痕跡を追うのは困難だ。

J地点-4  築堤の終端から林方を見る。ここは高架での建設がされたのではなく、連続する築堤を撤去した結果だ。戦時中であることと、航空写真でも連続した築堤のような構造物が続いている。



K地点  奥が衣笠方。ここまでくるともう判然としない。当時存在しなかった川や建て込んだ家屋群。黄色の予想ラインも怪しくなってきた。



L地点  三浦縦貫道の交差部。衣笠方を望む。ここの直線区間は県道の南側と並行していた。構造物は建設されず整地されただけと航空写真から読み取れる。さてここからいよいよ林駅構内への進入に向けて南へカーブする区間であるが、現在完全な住宅地になっており、また周囲は起伏のない土地なので、痕跡は完全に開発によって消されてしまった。



M地点  林駅終端部より構内を望む。航空写真を確認すると、今立っている手前の道路は当時から存在しており、構内の工事はこの道路手前で途切れていることから、80年経った現在でも場所が特定しやすい。あの軽トラの奥くらいに車止めが設置される予定だったのだろう。

いかがでしたでしょうか。80年以上という時を経て、当然のことながら遺構と呼べるものはほとんど残っていなかったのだが、往時の沿線住民やこの路線の建設関係者、発起人、ルートを選定した多くの人々の想いを想像しながらたどることに、自身とても有意義なものを感じたのだった。またもし建設が完了していたら現代の姿はどのようなものだったのか。すこし想像してみようと思う。


【空想編】

 まず京急他路線に接続していな孤立線であることや、衣笠駅で横須賀線と同じ狭軌で接続していることから、国有化されていた可能性もあるが、ここではかつての地方鉄道の国有化の目的とは異なり、運行上の便宜的な意味合いで国鉄線になり、現在はそのままJR東日本の路線になっていたかも知れない。一方京急として開業した場合、本線の軌間と異なるので、他社から車両を譲渡されたり近鉄南大阪線のような同一社内でもオリジナルの狭軌車両が登場した可能性を想像するのも楽しい。1067mm軌間の台車を履いた新1000形。高速運転も必要ないことからダウンサイジングされたスペックで4両編成とかで運用されていたか、本線向けの新型車両の増備で都落ちした1500形や旧1000形を久里浜工場で狭軌台車に履き替え、武山線に陸送されていたことだろう。武山線内には車両基地や工場の類の設置予定もなかったようだし、建設当時は検査や修繕は国鉄に委託するつもりだったと思われる。なので現在開業していれば、検査のたびに陸送して久里浜工場か、伊豆箱根鉄道や西武多摩川線のように衣笠駅から甲種輸送で大船辺りに運ぶか、はたまた逗子から三線軌条の逗子線を経由して、金沢文庫で検修、という可能性もあっただろう。

 現在の沿線の市街地化を見れば判る通り、鉄道があればさらなる都市化が進んでいたと思われる。全長6.1km、途中駅の大矢部、武山に交換設備があったとすれば、ざっくり計算だが、平均速度ではなく表定速度50km/hで運転し、途中駅の停車時間を30秒とすると、全線走破時間は約9分。駅程を大矢部2.1 武山3.7kmとしダイヤグラムに落とし込んでみた。



 2編成で運用し、武山のみで交換する12分ヘッドの日中のパターンダイヤだ。衣笠での1分30秒折り返しは少し厳しいが、ラッシュ時の文庫での鬼速増解結をやってこなす京急に期待を込めて可能と見た。また大矢部も全列車交換とすれば、3編成を用いた8分ヘッドでラッシュ時の対応もできるだろう。なので運用は終日往復する2運用。京急風に言えば2行路。もう1行路はラッシュ時のみ登場する計3行路になっていたであろう。予備編成は2本、ないしは1本の全5編成が所属。夜間滞泊は衣笠や林駅には留置線が1本程度あれば収まってしまう。でも接続する横須賀線ですらラッシュ時でも1時間に4本、日中は3本になってしまうので輸送過剰になるかも知れない。なので日中は1編成のピストン運行で20分ヘッドが現実的だろう。また現在の京急線で最も駅間の離れている北久里浜〜京急久里浜間の2.8km、次位の京急久里浜〜YRP野比間2.7kmに次ぐ、約2.5kmの武山〜林駅の中間地点は、現在沿線において、最も商業施設や住宅が集中している区間であり、交換設備の無い棒線駅が、「本武山」などと後年開設された可能性もあるのではないだろうか。終点の林付近においても三浦半島西部の中心部ということから住宅はもちろん、横須賀市民病院、県立海洋科学高校、電力中央研究所が。また途中武山駅近くには横須賀リサーチパークなど公的な施設も存在し、さらに武山線が開業していれば半島西岸が現在より大きく発展していた可能性もあり、接続する横須賀線にも多大なる影響を与えていたと推察される。

 最後に現在の京急の駅名標のデザインに武山線の駅を入れてみた。京急の駅ナンバリングは支線であっても路線記号は通番で「KK」として統一されているが、この路線では完全独立線であるため、独自の「KT」を名乗ってみることにした。また林駅については富山県のJR城端線に同じ「林駅」が存在することから「京急」を冠し、また武山駅は国内で同じ駅名は「竹山」ともに無いが、先にも述べた沿線を代表する地名なので、語呂合わせからこちらも「京急武山」とさせていただいた。そんな訳でテツなら誰でも経験があるだろう「妄想電鉄」の話をしたところで、今回のお題はお終いにする。

ご清聴ありがとうございました。