ハマの最後の臨港線。新興線のことを書こうと思う。

 
 あれは確か自分が高校生の頃、夏休みに入る直前の蒸し暑い昼下がりのこと。横浜駅西口のバスターミナルからやや外れたところに位置する、とある銀行の前に立っていた。ここが指定された集合場所だった。しばらくすると自分と同じくらいの年齢の若者が2人、そしてくたびれたジーパンを穿き、汚い紙袋を手に提げた50代と思しき男性が1人やって来ると、自分たちと同様に道路に向かって何かを待っていた。今日はお中元を仕分ける短期バイトの初日だ。勤務地はその時はよく分からないままだったが横浜駅から専用の送迎バスで15分程度とあっただけで、何も気にしないまま電話で応募し、今日のこの集合場所を指定された。やがて指定の時間。どこからともなく乗客の乗っていない無人のマイクロバスが我々の眼前に停車し、ドアが開いた。運転手に促されるまま、先ほどの3人の男性と自分の計4人を乗せて、送迎バスは横浜駅を出発した。バスは青木橋を渡り国道15号線を北上。途中新子安のループ橋を上り産業道路を海方面へと走り始めた。付近が工業地帯になるとバスの目の前に産業道路を横断する踏切が現れた。貨物専用線である。以前からこの踏切と貨物線の存在は知っており、何度かここをバイクで通ったことがあったが、当時すでに線路はすでに使われていないような「廃」の雰囲気を醸し出しており、とっくの昔にお役御免になっているものと思い込んでいた。そういえばそんな線路もあったな~と何も考えずに窓の外を見ると、なんと! あの廃止されたものとばかり思い込んでいた貨物線の踏切が突如として鳴り始めたのである! その時は声を上げんばかりに驚き、もう次の瞬間にはこの時間を覚えておいて次回撮影に来なくては、と思っていた。さて気になるのはのはナニが通るかだ。バスのイスから身を乗り出して前方を注視していると、踏切は何分間か道路をさえぎっただけで結局列車は何も通らず、そして何事も無かったかのように遮断棒は上がり、元のように通行が解除された。ただ産業道路の大型車の大渋滞を作っただけの踏切。いったい何だったのか? やがてバスは動きだし交差点を曲がり、先ほどの貨物線と並走しながら目的地を目指した。しばらく行くと貨物線の終端のような場所が前方に見えて来た。ヤードのようで広大な敷地の中に線路が何本かひかれ、ホキやタキなどが何両か止まっているのが見えたが、全く動きは無いようで活気はおろか、現役で使われてるような形跡が見当たらない。もう廃止になって何年か経っているのだろう。そう思っていると間もなくバスはそのヤードを裏手へと回り込み目的地である事業所に到着した。その事業所は先ほど見たヤードの真裏に位置する場所にあった。バスを降り受付で簡単な手続き。その後担当者に案内されて配属先に向かうと、そこはベルトコンベアで流れてきた荷物を仕分け、トラックに卸す積込み場で、その積卸し口が先ほど見た貨物線のヤードの真ん前だった。仕事の説明を簡単に受け労働開始。30秒おきくらいにベルトコンベアから運ばれてくる荷物の宛先を見て、町名ごとに用意されたカートに積み込み、満杯になったら指定されたトラックの待ち受け場所までゴロゴロと押して積み込み、ひたすらそれを繰り返すという単純労働だった。「ホイスト」と呼ばれる業務だったと思う。仕事内容は全くキツくないし時給も当時としてはかなり良かったのを覚えている。2週間程度の短期契約なので本業のバイトが無い日は、学校が終わったら横浜駅まで原付で行ってマイクロバスに乗換え、あの踏切を渡り単純労働をする日々が始まった。

 バイト2日目。今日はテスト前のため学校は自主休校。とにかく夏休みの旅行の資金や、カメラの装備を華やかにするためにコンビニから新聞配達、短期バイトなどいろいろやっていたので、学業は全くと言って縁遠かった自分。親不孝など考えたことも無かったが、今日は自主休校のため昼前からの労働に勤しんだ。すると労働を開始してすぐ、遠くから「ピョッ」という低い笛のような音が聞こえてきた。最初はトラックの誘導の笛かと思った、その次の瞬間、「ピョッ、ピョッ」と2回の短笛が聞こえた。もしや・・・どこかで聞いたことのあるホイッスル。もしやもしや・・・とそわそわしながらその音の発生源を確かめたかったのだが、今日に限って例のヤードが見える積卸場の配置ではなく、建物の反対側の積卸場に配属されてしまい、その音源を確認することは出来なかった。それからバイトも何日か経ったのだが、なぜかいつも線路の反対側の積卸し場の配属が続いていたが、あの日聞こえた機関車のホイッスルのような笛の音は、毎日ほぼ同じ時刻に聞こえるのが分かってきた。と同時に線路のきしむ音が聞こえてくることもあり、記憶では確か11時頃 13:30頃 16時頃の一日3回である。時折その3回のうちどれか1回が無かった時もあったが、時刻は毎日ほぼ変わらなかった。そしてついに、いよいよバイトが休みの日、学校が終わって16時の笛の発生源を確かめるべく原付に跨って職場前のヤードに向かってみることにした

 少し早い14時ころ到着。構内に動きは全くないのだが、停まっている貨車の位置がいつものように変わっているのがすぐに分かった。踏切から線路を覗くと、うっすらと錆びが剝けており、何らかの列車がここを通っていることが証明された。近くの市営バスのバス停はその名も「新興駅前」。近くの交差点の名称も「新興駅」。ここで初めてこのヤードが「新興」という駅名だということが判明した。木陰にバイクを停めしばらく待機。けれどもその日は待てども待てども列車はやって来なかった。やがて薄暗くなってきたのでその日は静かな構内の写真を撮って新興駅を後にすることにした。




この時撮影した唯一の写真。長編成のホキ、そしてトラがいる。構内は機回し、仕分ができる余裕のある配線。
1992年7月頃    新興貨物線   新興   EOS630

古くから港湾都市として栄えた横浜は、国内外から船舶で運ばれてきた大量の貨物を、ライフラインである鉄道で全国各地へ発送していた拠点である。そのため高度経済成長の最盛期には横浜の港湾地区の至る所に線路が敷かれ、日夜問わず貨物列車の発着があり、その中枢を担うのが東海道貨物線、通称高島線でもあった。現在の高島線はご存知のように根岸から発着するタンカー列車を、桜木町までの旅客線から分岐させ、横浜駅を経由せずに鶴見まで輸送するのが主な任務であり、鶴見からは武蔵野貨物線、東海道線など全国に繋がる大動脈への橋渡し的存在になっている。しかし、1960年代に最盛期を迎えた高島線は、山下地区、新港地区、山内地区、瑞穂地区などの様々な専用線と接続し、全国へと結ぶいわば横浜の貨物線の生命線でもあった。かくいう自分はこの横浜で生を受け、高度経済成長はとっくの昔に終焉を向かえ、むしろ経済が斜陽化していた頃に物心が付いた世代なのだが、そんな自分でも子供の頃、港湾地区に足を踏み入れると、細々とながら現役の専用線もあったし、役目を終えてから時があまり経ってないような放置された遺構も至る所にあった。そんな横浜の最後の専用線とも言うべき現役路線が当時残っていたのだ。

 詳しい話はウィキとか見ていただければ分かると思いますが、「新興駅」というのは正式には東海道貨物線=高島線の本線上に位置し、2014年現在でも存在する貨物駅である。とは言えここを発着する貨物列車は現在無く、臨時取扱所ということらしいのだが、かつてはここを入江駅と呼んでおり、ここから分岐して港湾地区へ向かう専用線の終点(上記ヤードとして登場した場所)を新興駅としていたのを、昭和60年、この支線の終端の駅名に、本線上の駅が統合されるという珍しい形で、終端に向かう2.7kmの路線は本線上の新興駅の駅構内という扱いになった。このページでは便宜上、現在の高島線本線上の正式な名称である新興駅を入江駅、終端を新興駅、また専用線全体を新興線と称すことにする。

 この新興線の開業は昭和9年とされ、最盛期はこの新興線に30線もの各社の専用線が接続し、24時間貨物列車の発着があったとされる。大部分の専用線が廃止された1992年当時も、この界隈をウロツクと至る所に線路の跡を見つけることができた。自分がこの路線に興味を持ち始めたのは1992年の夏。その時現役であった専用線は入江駅側から昭和電工、日石第4工場、日石第3工場、内外輸送の計4路線だった。



1993年5月頃

 昨年の2週間程度の短期契約のバイトが終わると、もうこの路線のことをほとんど思い出すことはなくなってしまった。生活にも変化が出てきた1993年春、何かの拍子にふと新興駅を思い出し、とあるヒマな平日の昼下がり、昨年のバイト時に聞こえた笛の音の時刻を思い出して現場に行ってみることにした。市内中心部をしばらく走り、沿線の核となる(と思っている)恵比須町踏切に到着するとすぐに、いきなり前方の遮断機が下り始めた。そして念願の動いている機関車と貨車が目の前の踏切を渡ってゆっくりと通り過ぎていった。時刻は13時頃と記憶している。今は無き日石の赤い太陽マークの貨車を先頭に機関車が後方で押している推進運転での通過だ。どこへ行くんだろう。通過してしばらくすると踏切が開き、渋滞のトラックをかわしてその先頭に出た。交差点を左折。しばらく行くと再び車列が待っていた。列車は道路を横断して日石第4工場へ入るらしい。ここは踏切が無いので係員が両腕を広げてクルマの流れを静止させている。すり抜けてかろうじて渋滞の先頭まで出て、その列車の入場を撮影することができた。目の前でゆっくりと押し込められる貨車。覗き込むとどうやら構内には2本の線路があるらしく、今押し込んだ空車の貨車を入れた機関車は、構内で出荷準備の整ったタキを連結し、今度は前位で貨車を牽いて来るらしい。20分くらい経つと再び係員が道路の交通を遮った。




懐かしい日石のマークの黒いタキ。轟音を立てながら工場内に押し込まれてゆく。
1993年5月頃    新興貨物線   日石第4工場前付近   EOS1000s




そして積荷が積載されたタキを率いて出荷。
1993年5月頃    新興貨物線   日石第4工場前付近   EOS1000s




振り返って撮影。今日の荷物は2両だけだったようだ。
1993年5月頃    新興貨物線   日石第4工場前付近   EOS1000s



   
撮影に向かう途中なんとなく撮影。左:完成したばかりのランドマークタワー。周囲に建物は数えるくらい。 右:高島駅跡。詰所と広大な操車場を照らす照明が残されていた。

 初めてこの新興線が生きている証を撮影することができた。少しの感動のまま夕方近くまでこの近辺で待機していたが、それ以上の動きは今日は無いようだった。その日から事あるごとに、この新興線を訪れては運行時間把握に努めるようにしたが、なぜかカメラを持って出かけないことが多く理由が今となっては謎である。しかしその地道な訪問の成果によって、この日石第4工場の運行はほぼ毎日13時頃に行われていることが掴めた。しかしその他は、午前中に運転があることがあるらしく、学校があったりで調査が出来ない日が多く、ふと時間が出来て訪問できるようなことがあっても運転されていなかったり、本当にこの第4工場以外でも現役なのか謎は深まるばかりだった。でも定期的に錆びた線路の上を車輪が通った跡があったりして、この路線が生きていることは事実なようだ。

1994年6月頃

 とある日、珍しく昼前から恵比須町踏切で待機することが出来た。時間は忘れたがおそらく11時前頃、踏切が鳴り出した。以前訪問した時と同じように貨車を先頭にDE10がプッシュしているのだが、なぜか様子が違う。いつものタンク車ではなく黒いホキを押している。側面には昭和電工の文字。おっ! ついに初めて昭和電工専用線入線を撮影できる日が来たようだ。入江駅から貨車を押してきた昭和電工の列車は、一旦ここの踏切上でスイッチバックして、工場内に押し込んでいくらしい。機回しが出来ない専用線らしい都合によるものだろう。早速先回りををして昭和電工専用線での撮影を開始することにした。




無線誘導により踏切でスイッチバックした列車は工場前の道路を渡る。
1994年6月頃    新興貨物線   昭和電工付近   EOS1000s




再び機関車が押し込みの体勢に入るが、編成が長すぎてもう一度道路を渡るまで顔を出し、トラックに待ってもらう。
1994年6月頃    新興貨物線   昭和電工付近   EOS1000s



上記写真の反対側から。この道はすぐ向こうが海になっている。
1994年6月頃    新興貨物線   昭和電工付近   EOS1000s



アルミナのつまれたホキを本線へと押し戻る。
1994年6月頃    新興貨物線   昭和電工付近   EOS1000s

1994年夏頃

 この1994年当時、昨年撮影していた日石第4工場専用線はすでに廃止されていて、産業道路を渡っていた線路跡もこの時にはもう蓋をされており、工場の門も閉鎖されて閑散としていた。今日は昼過ぎから恵比須町交差点でいつものように待機。この頃からこの新興貨物線を撮影している何人かの人と顔見知りになり、互いに情報交換をしており、そのうちの1人と仲良くなった。あまり深いことは聞かなかったが、自分と同様、平日の昼間から工場地帯の真ん中で何時間も来るかどうか分からない貨物列車を日がな待ち続けていたのだから、お互い聞かずとも何となく素性は理解できた。よく顔を合わせた川崎から来ているという多分無職の年上の青年は、この界隈の事情にやたら詳しく、ネットなんて無かった時代、非常に貴重な情報を提供してくれた。そんな彼でもこの新興線の運転日、時刻などは正確には把握しておらず、自分が今まで体験して蓄積してきたこの界隈の情報をありったけ提供して差し上げた。ある日、一緒に恵比須町交差点の食堂の自販機のドリンクや、来る途中に買っておいたコンビニ飯を喰い、大型車の排気ガスを浴びながら無職氏と午後のひと時を過ごしていると、踏切が鳴り出した。いよいよまだ見たことのない新興駅最奥部の日石第3工場か内外輸送か?と期待しながら待っていると、この前の撮影時と同様、昭和電工のホキを先頭に貨物列車は登場した。前回より長めに踏切を塞いだまま停車。しばらくして進行方向を変えて昭和電工構内へとホキを引き連れていった。一緒に列車を待っていた無職氏は「これから第3工場あるよ・・・」と言い残し急ぎ足で新興駅方面へと立ち去って行った。昭和電工の入れ替えへはなぜかこの時撮影せず、無職氏の言った言葉を信じ、この踏切で出場してくる編成を待っていた。昭和電工線内での入れ替え中、ふと踏切から入江駅方面を覗くと機関車を解かれたタキ数量が本線上で放置されている。さっきの長い停車時間はこのタキを切り離していた時間と判明した。つまり ←入江 □□(昭電)□□凸□□(日石)□□ 新興→でここまでやって来た後、踏切の手前で入江方のタキ(日石用)を解放していたのだ。その間前回と同様に昭和電工の入れ替えを済ませ、再び本線上にホキを先頭に戻り、そして数m入江方に動き、待機していたタキを連結。再び □□□凸□□□ で新興駅方面へと走り出した。




昭和電工で受け取ったホキを先頭に新興駅を目指し出発。
1994年夏頃    新興貨物線   恵比須町踏切付近   EOS1000s

 これから初めて見る新興駅での入れ替えに心躍らせバイクを走らせた。新興駅に到着すると、先ほどの無職氏はすでに待機していて撮影の準備をしている。列車のスピードは意外と速く、バイクで到着するとすぐに列車はやって来た。列車は構内に停車するとまず昭和電工のホキを解放。そして道路封鎖が始まり、いよいよ機関車はタキを押し始め日石第3工場へと吸い込まれていった。しかしどうしたことか、なぜかこの第3工場への入場だけは撮影しておらず、後々になって非常に悔やまれる。他の専用線と同様空車を押し込んだ後、積荷の入った別の編成を道路を横断しながら引き出し、新興駅構内へと戻ってきた。さて、どうやって入江駅に戻るのか?とワクワクしていると、今度は添乗してきた係員が駅外れにある踏切の操作を始めるではないか! どうやらこの先の内外輸送の入れ替えもあるらしい。遮断機が降り、大黒ふ頭方面からの車の流れがシャットダウンされると、頭上の道路信号の表示も赤になり、珍しい踏切信号が作動し始めた。一日数回の列車運行のために大動脈の産業道路のクルマを全て一時停止させるわけにはいかない故の踏切信号であろう。しばらくして先ほどの日石から引き出したタキをそのまま引き連れたまま、DE10は悠々と道路を横断していった。




内外輸送を目指し出発。
1994年夏頃    新興貨物線   新興駅踏切付近   EOS1000s




日石タキを連れてそのまま内外輸送構内へ。奥にスイッチャーが待機している。
1994年夏頃    新興貨物線   内外輸送   EOS1000s




今日の内外輸送の荷はたった1両のタキ。
1994年夏頃    新興貨物線   新興   EOS1000s

 内外輸送のタキ1両をくっつけて踏切を渡って新興駅構内に戻ってきた。DE10は複雑な入れ替えを何度も繰り返しながら、ついに返却編成が組成された。陣容としては ←入江  凸+(昭和電工)+(日石)+(内外) 新興→ といった具合である。出発を見届ける前に先回りして宝運河を渡る鉄橋のたもとで列車を待つことにした。




1994年夏頃    新興貨物線     EOS1000s

1996年夏頃

 あれから2年が経った。2年前に比べ変化があったのは運転時刻くらいで、昭和電工、日石第3工場、内外輸送は共に現役だった。以前は運転時刻は頻繁に変化していたと記憶しており、昨日走っていた同じ時刻に訪れてもウヤだったり、意表をついて踏切が鳴りはじめたりしていたのだが、この頃になると、ほぼ毎日同じ時刻で運転されるようになっており、捕捉は容易になってきた。記憶の範疇だがこんな感じだ。

昭和電工     10:30  15:30  毎日
日石第3工場   14:00        毎日
内外輸送     14:00        週2程度 (日石と併結)

この頃は主にビデオでの動画撮影に専念しており、写真撮影はほとんどしていなかった。

1998年冬頃

 久しぶりに訪れると日石第3工場の輸送は廃止されていた。今ままでほぼ毎日新興駅まで顔を見せに来ていた貨物列車は、内外輸送の運転がある週に数日程度になってしまい、毎日運転されるのは昭和電工までの区間となっていた。でもヒマを見つけては足繁く新興駅に通い、少ない運転頻度ながらも末端まで足を伸ばす内外輸送を追っていたりもした。運転曜日は月・木が多かったように思う。また往路、復路のいずれかが単機の場合が多く、頻度の高い昭和電工のように空車を持ってきてその足で積荷を運び出す、ということすらしなくてもいいほど、輸送量は激減していた。




今日は単機でお出迎え。
1996年冬頃    新興貨物線   新興   EOS55 75-300mm




広かった構内も日石の輸送終了により半分が駐車場化されていた。
1996年冬頃    新興貨物線   新興   EOS55 75-300mm




内外輸送でタキを受け取り入江駅へと戻る。
1996年冬頃    新興貨物線   新興線   EOS55 75-300mm

2002年夏頃

 4年ぶりに新興線を訪ねると、すでに運転頻度の高かった昭和電工の輸送は終了しており、まさかの最後まで残るとは予想しなかった内外輸送が週2回の営業を細々と続けている状態であった。当時働いていた鶴見の事業所から自宅に帰る途中に暗くなった新興線に立ち寄り、線路の錆の状態を毎日確認し、運転される曜日を特定しようとしていた。しかし夜間に降りた露などで一夜にして車輪通過の形跡が分からないことが多く、セロテープを線路に貼り付けて翌日確認する作業を繰り返したところ、大体の曜日を特定することができた。その運転日、ある言い訳をして会社を抜け出し、新興駅に急いだ。会社からバイクで10分の距離だったので上司にバレずに済ますことが出来た。




使われなくなった側線は埋もれ、もう草むら状態になっていた。




今日も単機で荷を受け取りに到着。




踏切前で一旦停車し、遮断機の操作。1週間で4回だけ赤に変わる踏切信号。
2002年夏頃    新興貨物線   新興   EOS55 75-300mm




構内からたった一両のタキを引き連れて、また信号が変わるのをしばらく待つ。
2002年夏頃    新興貨物線   内外輸送   EOS55 24-85mm


2002年夏頃    新興貨物線   恵比須町踏切   EOS55 24-85mm




新興線は2回運河を渡る。恵比須運河橋梁。
2002年夏頃    新興貨物線   恵比須運河   EOS55 24-85mm




2.7kmの短い旅ももうすぐ終了。入江駅手前でも一旦停車。
2002年夏頃    新興貨物線   ビクター正門前   EOS55 24-85mm

 結局、会社をサボって撮影しに出かけたこの日が、自分にとっては動いている最後の新興線になってしまった。初めての出会いから約10年。心の片隅にいつもあった「ハマの最後の臨港線」は、この撮影の翌年の2003年、内外輸送のトラック切り替えによってその用途を失われ、ひっそりとその長い歴史に幕を閉じた。そしてそれからまた10年。この新興線跡地を横浜市が「貨物線の森緑道」として遊歩道の整備を始めた。かつての横浜港の発展を見つめてきたものの、特に注目されずに消えていった新興線の思い出を今に語り継ぐ、モニュメントとして多くの人々に訪れて欲しいと思う。