根北線を知っていますか?

1992.8

 国鉄民営化を直前に控えた昭和の最末期、改革の名のもとに、全国の特定地方交通線、合計3000kmのローカル線が次々と廃止、もしくは第3セクター鉄道となっていった。当時、毎月のように○○線廃止というニュースを知る度に、辺境の地を走る赤字ローカル線に次第に興味を惹かれていったものだが、年齢も年齢だったもので、かろうじて間に合ったのが天北線、名寄本線、地北線、標津線、鍛冶屋線、大社線の極わずかな路線だった。とは言え、ただ乗り通すだけで、沿線や駅などの情景など記録に残すことができなかったのが残念である。

 そんな中、前述の国鉄再建法による廃線ではない、単なる利用者の少なさから赤字を理由に廃線となった、北海道は「根北線」(こんぽくせん)について興味を増すようになっていた。廃止となったのは再建法より10年以上遡る昭和45年。名前の通り、北見の斜里と、根室地方の根室標津(標津線:現廃止)を結ぶという壮大な計画で戦前に建設が始まったものの、戦争により工事中断。戦後に再開し昭和32年に北見側、斜里〜越川12.8kmが開通したが、すでに沿線は過疎が進行しており、開通からわずか13年であっけなく廃止された。そんな根北線を語る上で忘れてはならないのが、第一幾品川橋梁。越川から先の未成区間に存在する立派なコンクリート製アーチ橋で、後年、文化遺産にも指定されたことで訪れる人も多く、一般に広く知られる存在となったが、自分が興味を持ったその当時はインターネットも無く、その情報や画像は非常に貴重で少ないものだった。どこかの文献で見た第一幾品川橋梁の写真と、晩年には一日二往復というやる気の無さ、国境を隔てる峠を越える未成区間の存在、開通後13年で幕を閉じたというその幻っぷりに、どうしてもこの目で確認したいという衝動に駆られ、1990年春、ワイド周遊券で巡った北海道旅行に日程に根北線の実地調査の予定を組み込んだ。

 札幌から乗った夜行急行「大雪」で網走に到着。接続する釧網線に揺られ斜里到着。ここで接続する越川方面へのバスに乗り換えようとすると、なんと訪問した当日、月曜日は運休とのこと。徒歩移動も考えたが往復30km歩くのはさすがにしんどいので、その日は諦めて何日か道東、道北方面へ乗りテツ三昧をした後、3日後に再び斜里に戻ってきた。駅前で待っていた小さなマイクロバスに乗り出発。沿線の遺構を見つけようと左右の車窓に目を凝らしていたが、何も見つけられないまま終点の越川小学校前に到着。始発から終点まで、結局乗客は自分ただ一人だけだった。降り際にバスの運転士に越川駅のことを訪ねると、ここからさらに数kmほど歩かなくてはならないという。バスは一日2本。乗って来たバスはすぐに折り返すので、探索後、何もないこの原野の国道で夕方のバスまで時間を潰すか、歩いて斜里まで戻るしかない。とにかく越川駅跡を探索しようと1時間近く歩くと、記念碑だけのあるただの雪原だった。画像で衝撃を受けた第一幾品川橋梁まではもう少しの距離であったが、帰りのことを考え、そこで探索を断念し、斜里駅を目指して4時間近く歩き続けた。

 それから2年後の1992年夏。初めて手に入れた原付で、初めての北海道ツーリングに旅立った。その旅程の途中、ついにあの根北線沿線を訪問することができた。釧路側から、線路も越えるはずだった根北峠を斜里側へ。しばらく峠道を下ると昔、画像でしか見たことの無かった第一幾品川橋梁が視界に飛び込んできた。



 どーすか、この迫力! 左が越川方で右が峠方面。峠越えに備えて、この橋梁は25‰の勾配になっているという。また難工事が予想されたためだろう、ここの着工は戦前と早いものの、一度も列車が通ることの無かった未成橋である。資材不足下でも工事だったため、これだけの巨大コンクリート建造物であるにもかかわらず、調達できなかった鉄筋の代わりに竹を用いた「竹筋」だったり、悪名高いタコ部屋労働により数名の犠牲者が人柱として埋もれているという伝説も、現在となっては有名な話だ。そしてこの訪問の6年後、登録有形文化財に指定され、周囲に駐車場とか見学スペースとかが設けられたようだが、この当時はまだ、このような巨大建造物が何の前触れも無く「どーーん!!」だったのでインパクトは絶大だ。ついでに、と、この橋梁の前後はどうなっているんだろうと線路と同じレベルまで登ってみると、さすがに路盤は整備されていないものの、ハッキリと軌道予定地と判る道の跡が見て取れた。




橋梁のたもとから、根室標津方の路盤を臨む。

 見学を終えバイクで出発。終着越川駅は記念碑があるだけで何も残っていないことは知っていたため、途中駅である「以久科」駅跡に行ってみることにした。「いくしな」と読むが、同じ「いくしな」でも集落は「以久科」、橋梁にも名が付いた沿線の川は「幾品」と違うところも興味深い。何かの書籍で、以久科駅跡が残っているという情報を得ており、期待が高まる。集落の中心部周辺を原付で行ったり来たりしながら散策するも、廃止からすでに20年以上経っているので、痕跡も少なくなっているのだろう。自力での探索はギブアップ。近くには商店も見当たらないので郵便局で尋ねることにした。窓口にいたおばちゃん局員は、わざわざ外まで出てきてくれて、「ほら、あそこあそこ」と地平線の彼方を指さした。




斜里岳を背景に畑の中に佇む、廃屋。あれが以久科駅舎跡だという。

 本当にあった。まるでおとぎ話のような小さな小屋が遠くに見える。でも本当かいな? 廃住宅に見えないでもないし、近づいて確認せねばならない。しかしその場所はどう見ても畑のど真ん中。つまり人ん家の敷地内。駅に続いていたであろう駅前通りはすでに麦畑に変わっているし、どうしたもんかな・・・と周囲を見回してみると、なんとラッキーなことに、この畑の所有者と思われる方が作業をしていらっしゃった。恐る恐る話しかけ、この旅の目的はこの駅舎訪問だ、くらい少し盛って話すとすんなり進入許可OK。作物を踏まないようあぜ道を慎重に通り、駅舎に近づくことができた。



 まずは駅正面から。奥が越川方。昭和30年代ということから構造はコンクリート製。軒が崩壊し鉄筋でぶら下がっている。ロータリーか駅前広場があった場所には、建物にギリギリまでカブだったか甜菜の畑に変わっていた。



 反対に回ってホーム側から。線路や路盤は当然跡形も無く、こちらも一面畑。ホームの高さがかろうじて残っているが、幅が無さすぎるので、おそらく大部分が削り取られて農地にされてしまったようだ。



 こんどは反対の斜里方を臨む。線路沿いに建物があるが、郵便局のおばちゃん曰く、官舎として使われていたものだという。



 少し離れて駅舎全体像。左が駅前。右がホーム。奥が越川となる。こちら側はトイレと倉庫のようだ。以上で根北線関連の写真は終わりとなっている。今思えば駅舎内の様子とか観察すべきポイントとか一杯あるだろうに、なぜそれをしなかったのであろうか。この数年後、この以久科駅舎は取り壊され、農地として整備されてしまったようで、あそこまで接近しておきながら後悔の念に堪えない。成果に満足した少年は、バイクまで戻り斜里市街を目指して走り出した。しかし建物が増え始め、中心地まであと数キロというところでエンジンが突如として吹け上がらなくなってしまった。停止してしまわないようスロットルを全開にするも、ブボボボボォ!と情けない音とともに盛大な白煙がマフラーから噴き出している。ヤバい・・・。ついにエンジン停止。薄暗くなり始めた斜里の市街地をトボトボとバイクを押して、ひとまず駅に向かう。途中のコンビニで今日の夕食の弁当を買い、壊れたバイクは一旦置いておいて、駅の待合室で弁当をほおばっていると、とうとう雨が降り出してきてしまった。旅を始めてから7日目。「どうすべかなぁ〜」と今後の対策を検討する。当初、有人駅である斜里ではなくて、付近の無人駅で静かで楽しい駅寝の予定だった。しかし雨も降っている上、いつ止まってもおかしくない壊れかけの原付で駅寝駅探しはリスクが高すぎる。もう一度「どうすべかなぁ〜」と悩んでいると、到着した列車から2人組の自分と同じ年くらいの旅人が降りてきた。2人とも降りてから何をするでもなくウロウロと駅周辺を徘徊しており、荷物からおそらくこの斜里駅で野宿するようだ。話しかけてみると案の定そうで、いろいろ話し込んでいるうちすっかり意気投合し、屋根もある団体改札の前で一緒に駅寝をすることにした。時間も忘れて旅の話に花を咲かせていたが、バイクのことを思い出した。明日を待って近くのバイク屋に見てもらうのもいいが、その前に自分でできることはやっておこう。簡単な工具は持参しているし、2ストエンジンの構造と原理は理解しているつもり。吹け上がり方からエンジンか燃料系、吸排気系が怪しい。スパークプラグを外したり、エアクリーナーを外しているうち、原因が判明した。なんと湿式のエアクリのエレメントが外れてそのままマニホールドに吸い込まれ、吸気系を塞いでいたようだ。旅の途中どこかで気になって、必要もないのにエアクリナーを外して意味の無い点検をした際、きちんと組み合わせを確認していなかったようだ。元通りに組付け、エンジンを始動させると、カブッていた燃焼室から白煙が大量に上がったのち、すぐに通常の状態に戻った。横で作業を見守っていてくれた例の2人組と大盛り上がり。まだしばらく話し込み夜遅くに就寝。翌朝、2人組に別れを告げ、知床峠を越えて念願だった日本最東端、納沙布岬に足跡を残した。