京急 「旧」 羽田空港駅最終日

2019年 夏のある日

 最近、休みの日、日中の暑さがまだ残る夕方、お散歩に出かけるのが日課になってしまった。近所の駅まで歩いて行って数百円程度の乗車券を買い、通過したことはあれど、下車したことのないふと気が向いた駅で降り、しばらく界隈をうろつく。コンビニ前で一服しながらビールを呑んだり、腹が減っていれば定食屋で飯を食いながら同様に酒を呑んだり、気持ちよくなったところで帰宅する、というどうしようもなく生産性のない行動が幸せに感じる齢になってきてしまったらしい。

 そして今日もそうだ。17時ころ自宅を出発し駅まで徒歩10分。ICカードに押されめっきり設置数が少なくなった自動券売機で切符を購入した。実は私事であるが、撮影がメインのテツと言えども、一般人に比べると趣味で鉄道に乗る機会は多いのだが、どういう訳か、今まで人生で交通系ICカードを所持したことが無いのだ。さらに余談だが定期券というものを持ったことも人生で通算3カ月程度だ。初めは高校の通学の時。入学から1か月間、通学定期で京急線を利用していたが、なんだか駅まで歩くのが面倒くさくなり、5月の連休を待たずしてチャリ通学に切り替え、毎日40分ほど雨の日もせっせとペダルをこぎながら3年間通った。次は大学生。都内まで東急線で通っていたが、1か月ほどでバイクで第3京浜を利用したほうが電車代より得な上に通学時間も半分になるんじゃね?と思って、残った定期券を払い戻して、第三京浜の当時200円の回数券を片道だけ利用し都内に渡り、帰りは国道1号か246で帰宅、またはバイトに向かうというVIPな通学をしていた。そして社会人。前職の職場が鶴見にあったため京急で通っていたが、これまた1か月ほどで職場周辺で無料で駐輪できる公共施設を見つけてしまったため、会社から交通費を密かにもらいつつバイクで職場にむかうというコンプライアンスに反する行動を在籍中ずっとしていた。そんな訳で毎日電車に乗るという経験をしたことの無い自分には、定期券も交通系ICカードも不要なので、今日も硬貨を券売機に入れて切符を買ったのだった。

 そして今回降りた駅は京急空港線穴守稲荷駅。夕闇迫る小さな商店街は通勤客と買い物客とでごった返し、街が活気づいている。なんだか楽しくなってきてしょうがない。しかしもう夕方というのに、昼間の気温と湿度が残ったままのようで非常に暑い。とくれば駅前のコンビニでビールを一気飲み。店頭に灰皿が無かったので一服は我慢して歩き出し、遠い昔の記憶をたどりながら10分ほどで、ある場所に到着した。



 どこにでもありそうなある住宅街の光景。コインパーキングの入り口が通りに面し、やけに奥行のある駐車スペースが続いている。撮影している自分の背後には海老取川という小さな運河。その運河の対岸には羽田空港の施設群が広がっている。そう、ここは1991年1月15日に廃止となった京急空港線、旧「羽田空港駅」跡地である。今から約30年前の同地点が以下だ↓

1991.1/15



 成田と並んで日本を代表する大空港の名前を冠した割には、駅の規模はとてつもなく小さく、ありきたりな都会の中のローカル線の終着駅といった風情だ。現在では京急空港線はターミナルビル直下まで乗り入れており、京成、都営を経由して都心方面から、また横浜方面からも8両編成の列車がひっきりなしに乗り入れし、空港利用者の足として大活躍してる。しかし当時は空港ターミナルからおよそ徒歩圏ではない離れたこの場所に「羽田空港駅」は存在していた。一応ここから空港ターミナルまで連絡バスがあったが、小ぶりなマイクロバスが往復していたがほとんど利用者は無く、この空港線は地域の足が主な使命だったようだ。
なぜこの地に「羽田空港駅」が存在していたかの経緯は省略するが、簡単に言うと太平洋戦争→米軍が空港を接収→京急末端部廃止→空港の沖合移転・・・で駅だけが取り残されてしまった訳だ。そんな空港線、当時は地平の京急蒲田を出発するとすぐに急カーブの単線で本線と別れ、大幹線道路である国道15号線を踏切で遮って横断。ほどなくして複線に戻り、そしてまた終着手前の穴守稲荷で単線になり、0.5kmほど進んでこの旧羽田空港駅に到着していた。現在のように本線との直通運転は無く、3両編成の列車が線内で折り返しを行っていた。晩年は800形だったが、その前は500形や400形など本線系統から都落ちした車両で運用していたのだ。しかし90年代になると、京急は来たる羽田空港沖合展開に合わせて本格的な空港連絡路線として整備すべく、ターミナルビル直下への延伸を決定。穴守稲荷から先を地下化するため、この日をもって末端の穴守稲荷〜旧羽田空港を2年間に渡って運休。その間に既存線の掘り下げと延伸工事を経て、2年後の1993年に現在の姿になったのだ。

 前置きが長くなったが、その運休前の最終日、友人のTと訪問したのだった。当日は平日だったので学校の授業が終わってから現地へ向かい、廃止区間の撮影をした後、羽田空港発の最終列車に乗車することを目的としていた。そして現地に到着すると夕方だったので、明るいうちにと旧羽田空港駅と穴守稲荷駅間を往く列車の撮影をしようと急いだ。廃止フィーバーなんてものはほとんどなく、沿線では物好きな同好の志たちが数名カメラを構えているだけだった。




 懐かしいデザインの運賃表と券売機。自動改札はまだほとんどの駅で導入されておらず、駅員さんが入鋏していた。




当時の社会は禁煙という概念が一部で、タバコは基本どこでも吸ってよかったようだ。

 そうだったよな・・・自分が通っていた小学校の職員室はいつも煙でもうもうとしていたし、ある教諭は授業中に一服する先生として知られていた者までいた。さすがにそれは問題となったが、タバコ=大人のイメージが自分の世代には焼き付いている。




到着してすぐ折り返し。方向幕もずっと蒲田〜羽田空港の固定だった。

ところでところで! 突然ですが停車している800形の右のスペースに注目していただきたい。何か不自然な盛り土のようなもの。旧ホーム跡だったとしては線路から離れすぎているし、よく見ると奥から徐々に勾配を稼いで来て向かってくるのが分かる。あくまでも私の推察で「恐らく」なのだが、ウィキペディアによると、戦前の空港線は、この駅の突き当りにある海老取川を越えて羽田空港敷地内に乗り入れていたのだが、敗戦から数年後、空港とともに接収されていた線路の返還の条件として、複線のうち片側を国鉄蒲田から直通する物資輸送の専用線として、もう片側を旅客線として単線並列にし、旅客線を空港手前の現在地まで営業させたとのこと。この駅周辺の海抜はほぼゼロmなので、この築堤は貨物線が海老取川を越えるための勾配であったと考えられる。晩年、穴守稲荷〜羽田空港は単線であったが、かつては単線並列として2つの線路が敷かれていたのだ。

 さて、約30年前の我々は、駅周辺を撮影するとT君と穴守稲荷方へ歩き出し、列車の走行写真を収めて行った。登場するのはトップナンバーの801と805編成のみなので、この2本の列車が線内を往復していたと思われる。






蒲田方を向いて羽田空港行き。すでに線路真下では地下化工事の着手がされようとしていた。




現在も存在する穴守稲荷駅東側にある踏切から。蒲田行き。

 現在はまさにこの地点から下り勾配となって地下に潜り、長大なトンネルで羽田空港ターミナルを目指す。ところで上記写真、左側の線路は複線ではなく、すぐ行き止まりになる安全側線のようになっていた。安全側線なら随分長いように思えるし、それにしても線路の錆が剥けているようなので定期的にこの区間に列車が入線しているようにも見える。実はつい最近、ある京急に関する書籍から知ったことだが、これは当時、日中の空港線は2編成、朝夕のラッシュには3編成が使用されていたため、朝ラッシュが終わると夕方まで1編成をこの引き込み線で昼寝させていたそうだ。蒲田で本線に繋がっているので新町とかに回送すればいいものをなぜここで待機させていたのかは分からない。なるほどなー、程度にその情報を知った時には思ったのだが、そういえば、昔子供の頃買った京急時刻表の空港線のある謎を思い出した。押し入れにしまってあるだろう京急時刻表を探すと、あった! 早速空港線のページを開くと・・・。



「京浜急行電車全駅標準時刻表 1986年9月号」   大切な本には縁にテーピングをしていた幼き日



 やっぱりそうだ。8:58京浜蒲田発「穴守稲荷行き」。そして16時前に穴守稲荷発「羽田空港行き」。当時子供心になぜこんな不思議な運用があるのかと気にはなっていた。特に夕方の穴守稲荷発羽田空港行きは所要時間たったの1分。距離はなんと0.5kmという極短運用。あまりにミステリアスで30年前の少年はマーカーでチェックまでしている。この9:05〜15:58までラッシュ運用を終えた800形はこの側線で休んでいた。



 もうだいぶ暗くなってきてしまったが、穴守稲荷を出て単線区間に入る羽田空港行き。側線突き当りの踏切から撮影。夕方の運用に向けてさっきまでここにいた3編成目が出払ったばかりの時間だろう。そしてこの写真を思い出して2019年現在、同じ地点から同じアングルで撮影してみた。





 駅舎と駅を出てすぐの踏切は変わっていないが、線路はここからとんでもない急勾配で地下へと下り、かつての安全側線の車止めのあった地点ではすでにトンネルの中だ。

 時代は戻り1991年。撮影を続けてきた我々二人はいったん引き上げることにした。T君が横浜駅でバイトがあるためだ。自分は特に用事も無かったのでこの界隈に残り、バイトが終わったT君を待って最終列車に乗っても良かったのだが、すでに日は落ちて撮影できないことと、一人で数時間待ち続けるのもしんどいことから、T君と横浜駅で別れた後、自宅で晩飯を取り、21時にバイトが終わるT君を待って、二人でまた空港線にやって来た。最終列車まであと2時間ほど。現場は明日からの工事運休の準備と、穴守稲荷駅では翌日から橋上駅舎の使用が終わるため、少し慌ただしくなっていた。




刻一刻と最終列車の時間が近づいてくる。穴守稲荷橋上駅舎改札口。




現在でも残っている躯体だが、駅舎としては機能していない。




駅舎廃止を前に券売機が撤去された。駅員さんも感慨深げだ。

 下り最終の1本前に乗って羽田空港駅に移動。最終列車の入線をT君と待っていた。お別れにやって来たのはマニア諸氏数名と地元の方数名。あとはいつもの利用者と工事関係者くらいで、ごった返す感じではまるで無かった。やがてやって来た折り返し最終列車に乗り込み、今日限りのこの短い路線を後にしたのだった。




これから2年間の沈黙の時を経て、この羽田空港駅は大変貌を遂げる。