最後の地方交通線 大社線にお別れ乗車
1980年に制定された国鉄再建法。当時経営状態が火の車だった日本国有鉄道の財政を健全化しようとした法律であるが、その改善策の中の一つに赤字ローカル線の廃止、つまり特定地方交通線の整理があった。営業係数はもちろん、地理的・気候的など様々な条件から第1次〜第3次まで段階別に分類され、全国で83路線、3000kmに及ぶ路線が選定された。1983年、第1次の白糠線を皮切りに、路線の廃止、3セクへの以降などを経て7年後の1990年3月、第3次路線として最後まで残った宮津線(3セクへ移行)、鍛冶屋線、大社線が廃止され、特定地方交通線の整理は終了した。地元図書館で貪るように読んだ各地の風情あるローカル線の写真集にいつしか夢中になっている一方で、ことあるごとにニュースなどで「○○線のラストラン!」 「お別れ列車に多くの乗客が・・・」などの報道を見るたびに、喪失感というか、その現場にいることができない絶望感にいたたまれない思いでいっぱいだった。
そんな中1990年3月、春休みということもあり特定地方線、最後に廃止となる大社線に立ち会えるチャンスが訪れた。金は無いけどヒマはある。もちろん18きっぷでの参戦だ。
1990年3月30日
前日乗った大垣夜行を乗り継ぎ、新快速を加古川で下車。まだ電化されていない加古川線で鍛冶屋線の起点、野村駅(現:西脇市)で降りた。大社線に向かう道すがら、同じく明日で営業終了となる鍛冶屋線も往復する行程を組み込んだ。今日中に米子へ到着できればいいのでまだ時間に余裕はあり、この野村駅から少し徒歩移動し鍛冶屋線と加古川線の分岐付近でやって来る列車たちをビデオ撮影しながら2時間ほど過ごした。
鍛冶屋線が分岐する野村駅。鍛冶屋線廃止後は西脇市駅へと改称する。
1990年3月30日 加古川線 野村
鍛冶屋線の運用に就くのはキハ30。後に久留里線に転籍するキハ37もこの界隈で活躍するために誕生した。
1990年3月30日 加古川線 野村
ジャンクション駅ならではの発車時刻案内板。下のハンドルをグルグル回して表示を変えるアナログ方式のようだ。
1990年3月30日 加古川線 野村
鍛冶屋行きに乗車するとお別れ乗車のためほぼ満員。ようやく乗り込み野村を発車し3分ほど走ると、もうこの列車の終点、西脇駅だった。鍛冶屋線の運用の多くは、この途中駅である西脇で系統分離されることが多く、西脇市の中心部に位置していたため車庫もあり大きな駅舎も存在していた線内随一の拠点駅だった。行政の西脇市も鍛冶屋線が廃止となり消滅する西脇の名を残したかったのだろう、鍛冶屋線廃止翌日にはさっそく野村駅を西脇市駅と改称している。西脇で降ろされてしまいこの先の鍛冶屋行きまで40分以上時間があったので、駅周辺を見物することにした。
明後日からは隣りの野村駅が西脇市を名乗ることになる。
1990年3月30日 鍛冶屋線 西脇
市の中心部、玄関口として相応しい駅舎。
1990年3月30日 鍛冶屋線 西脇
みどりの窓口は無かったと思うが、有人の出札口も健在だった。
1990年3月30日 鍛冶屋線 西脇
鍛冶屋線の拠点、西脇駅。2面3線、車庫や中線もある大きな駅だ。
1990年3月30日 鍛冶屋線 西脇
しばらくして鍛冶屋行きの列車がやって来た。すでにホームから改札外には地元の人を初め多くのマニアが殺到しているが、現われたのは単行のキハ40だった。扉が開くや否やいっせいに車内へなだれ込みすぐにパニック状態に。自分はというと後列に並んだこともありギリギリドアの立ち乗り込むことに成功し、おかげで外の景色が見られることとなった。車窓は遠くの山、続く田んぼ、時折現われる集落といった、どこにでも見られるような風景が坦々と続き、20分ほどで終着鍛冶屋駅に到着。列車から吐き出された乗客たちは短い折り返し時間のなか動き回り写真を撮りまくる。駅舎は恐らく開業当時からの木造駅舎が残っていたものの、構内は1面1線と整理され、かつてあったであろう終着駅らしい構内施設は残されていなかった。自分ももう少し駅の様子を観察したいところだったが、帰りの便の窓際を確保するため、撮影はそこそこに折り返しの列に戻って来た。それでも結局座れずじまいで、行きと同様ドア付近で移ろう景色を眺めていた。
慣れ親しんだ地元の駅も明日が最後。おばちゃんたちが集まって順番に記念撮影が行われていた。
1990年3月30日 鍛冶屋線 鍛冶屋
動き出した折り返し列車内から。駅前には記念式典の準備がされていた。
1990年3月30日 鍛冶屋線 鍛冶屋
鍛冶屋駅での滞在時間は10分にも満たず、撮影した写真は上記だけだった。この旅の本来の目的はここから遠く離れた島根県。野村から加古川線、谷村で福知山線、福知山から豊岡、鳥取と山陰線にひたすら乗り継ぎ続け、米子に到着したのは23:05だった。本来は大社線の起点である出雲市まで向かうつもりだったと思うが、現代でも出雲市行きの最終普通列車が22:40であるため、おそらく当時でも列車がなかったことからここ米子で旅装を解いたのだと思う。
さて、これから朝までどうするか、だ。もちろん駅寝となるわけだが、当時の自身の駅寝スキルはあまりにも経験不足から未熟すぎた。この先大人になるに連れて駅寝に相応しい駅とは、無人駅でドアの閉まる待合所、横になれるベンチ、いつでも利用できるトイレ、終電初電の時間、治安面、衛生面・・・などいくつもの条件を求めてしまうようになっていくが、当時はどこでも、とにかく、で闇雲に決めていた。山陰屈指の鉄道の拠点駅である米子駅。規模も大きく当然有人なので夜間は締め出されるだろうと改札前のベンチに座りながら身構えているも、駅員は一向に現われない。もしやこのまま深夜開放されるのか?と寝場所を移すことにした。旧米子駅舎のコンコースは天井が高く、旅行センターがそのコンコース内の中2階のようなところにあり、そこで寝ることにした。ここなら人目を避けられるし、なにより天井に近いので自販機などの熱で3月とは思えないほど暖かかった。明日の夜もここにしよう、と決め朝を待った。
1990年3月31日
翌朝、冷たい床にごろ寝していたとはいえ天井に溜まった暖気で暖かく、熟睡することができた。いよいよ今日、88年の歴史に幕を下ろす大社線の最終日だ。そんな意味ある歴史的な機会に初めて立ち会えるということで、後世に記録を残さねばと子供心に勝手に妙な使命感を抱いていた。まずは大社線が発着する出雲市駅へ移動しよう。乗車する列車は急行「だいせん」。本来急行なので18きっぷでは乗車できないが、米子からは普通列車に種別変更するので乗車可能だ。このように夜行列車の末端区間だけを普通扱いにして、朝の通勤需要に充てるというのは当時各地で見られ、急行「きたぐに」や「日南」などが思いついただけで挙げられる。古いテツの方ならご存知の「〇〇崩れ」と呼ばれた運転方式だ。1時間少し、その「だいせん崩れ」の12系のボックスシートで寝足りなかった惰眠を貪り、ついに今回の目的地である出雲市駅に到着した。まだ高架化される前であり跨線橋を渡り0番線の切欠きホームに着くとキハ58の大社行きが出発を待っていた。
大社線は7.5kmの全線非電化路線で、途中駅は出雲高松、荒茅の2駅のみ。交換駅無し1閉塞の短い盲腸線であった。その名の通り出雲大社の参詣を目的として敷設された路線で、そのため国鉄末期まで関西方面からの優等列車なども直通していた由緒ある路線。今日はその歴史ある路線の最終列車乗車と撮影を目的にしてきたのだが、事前に地図で調べると起伏のない出雲平野をまっすぐ大社駅に向かって走るため、写真は代り映えの無いものと期待はしていなかった。とりあえず終点までは向かわず途中駅の2つのどちらかで降りてみようということで、6:54発の下り列車に乗り込んだ。まだ朝早いこともあり乗客は「だいせん」から乗り継いだテツがほとんどで、各ボックス席に1名くらいの乗車だった。さて8分ほど走って終着一つ手前の荒茅(あらかや)駅で下車。どこにでもある畑の中の棒線駅だった。
一面一線の停留所スタイルの荒茅駅。付近には田んぼと数件の住宅のみ。
1990年3月31日 大社線 荒茅
荒茅で列車を見送り撮影しながら大社方面へ徒歩移動開始。今日は最終日とあって通常ダイヤの列車の他に臨時列車も多数設定されているようで、7.5kmの短い路線のため、ひっきりなしに列車はやって来る。ほとんどが動画撮影であり、写真はあまり撮っておらず片手間で記録していたことが惜しまれる。ただ動画での記録はこのレポートを記すにあたって大いに役立ち、時間推移による車両の入替え、記録のない写真の撮影場所特定などの時系列が、35年の時を超え手に取るように判った。
出雲市方面へ向かう上り列車を後追い。
1990年3月31日 大社線 大社〜荒茅
たった1.5kmの駅間を2時間近くをかけ、来る列車来る列車を撮影して歩き、遠目に大社駅構内が見えてきた。駅正面に回り込んでみるとなんと立派な駅舎なこと。出雲大社の神殿を模している木造建築であり、後年、重要文化財と近代化産業遺産にも指定され、今でも現存しているそうだ。内部も手が込んでおり、細部の装飾など魅せる造り込みにしばし時間を忘れて観察していた。しかしそんな厳かな雰囲気の駅舎とは反面、今日は大社線営業最終日。駅前にはお別れのセレモニー会場が準備され、出店なんかも出ており、日常とは大きくかけ離れていると思われる。
見よ、この圧倒的な存在感。
1990年3月31日 大社線 大社
駅舎内にも観光拠点駅の風格が漂う。右の窓口は観光案内所のようだ。
1990年3月31日 大社線 大社
朝乗車した編成はまだ線内を往復していた。途中交換駅など無いので、この後、「祭り」のため出雲市駅で編成交換か増結が行われるものと思われる。
1990年3月31日 大社線 大社
出雲市方を臨む。貨物ホーム跡では式典会場の準備がされていた。
1990年3月31日 大社線 大社
構内や駅舎内の観察をひとしきり終え、そう言えばビデオではなく画像で列車の走行写真を撮影していないことに気づき、大社駅から先ほど歩いてきた道を戻り、構内手前の田んぼまで行き、列車を待っていると、いつしか4両に増結された編成がこちらに向かってきた。
正調国鉄色4両編成。キハ58+28とキハ40。最後尾は当時でも珍しかったキハ45のように見える。
1990年3月31日 大社線 大社〜荒茅
1本だけ撮影し再び大社駅に戻って来た。この後お別れセレモニーが14時からあるとのことで、まだだいぶ時間があったため、先ほど下車した荒茅ともう一つの途中駅、出雲高松に向かってみることにし、大社駅へ戻って来た。ホームに出ると2面3線のローカル線の典型的な中核駅の配線。1番線は駅舎に接したホームで、途中切欠きのかつての貨物ホーム跡もあり、2,3番線は構内踏切で島式ホームへ渡る構造。さらに機回し線もあり、かつては遠方からやって来た長大編成の客車を入替したり留置できるような立派な構内である。ホームで折り返し上り列車を待っていると、ますます盛り上がる午後のフィーバーに備えてか、いつしか4両編成に差し変わっていた。7分ほど乗車し出雲高松で下車。荒茅と同様1面1線のこじんまりとした駅だが、かつては交換設備もあり有人駅だった名残も見られ、渋い木造駅舎が現役であった。
島式ホームを棒線化した配線の出雲高松。
1990年3月31日 大社線 出雲高松
ホーム側より。木製のラッチがいい味だしている。
1990年3月31日 大社線 出雲高松
出雲高松駅周辺で散策していると、列車の時間でもないのに突然近くの踏切が鳴り出した。何事かとビデオカメラを回すとなにやら派手な5両編成の気動車が出雲市方からやって来て通過。大社方へ去って行った。名前はパッと出て来ないが当時全国で流行した気動車を改造したジョイフルトレインの団臨のようだった。国鉄末期からJR移行時、毎月のように全国各地でこのような改造JTの登場を鉄道雑誌が伝えていたものの、自分はこのようなJTには全く興味はなかったため、いちいち名前を憶えようとしてこなかった。でも路線廃止という非日常に気分が高揚していたのか、今通過していった列車を観察したいと、大社駅に戻ることにし、続行でやって来た下り列車に乗り込んだ。もしこの路線の閉塞方法が、短い盲腸線でよく採用されるスタフ閉塞を使用していれば、先のJTが出雲市へ戻って来るまで普通列車を線内に入線することはできないが、ここは長距離優等列車も乗り入れていた格式高い路線。そのためかは分からないが簡易式とも言えるスタフ式ではなく、続行運転も可能な「真正」タブレット式なので、大社駅で留置されているであろうJTを見に行くことができた。果たして大社駅に戻ってくると普段は使用されることの少ない3番線に、雑誌で見たことのあるような無いようなキハ58を改造した団体のジョイフルトレインが停まっていた。
バブル期当時、こんなジョイフルトレインが毎月のように現れ華やかさを売りにしていたが、自分は興味も無かったし無縁だった。
1990年3月31日 大社線 大社
というわけでこの記事を書くにあたり画像検索で調べてみると、手前の青い車両は「ほのぼのSUN-IN」、奥のオレンジ色のラインの3両編成は「ふれあいSUN-IN」とのことで、いずれも現在はほぼ死語であるお座敷列車だった。さて駅舎周辺では午前中のそれとは比べ物にならないほどの人手になってきた。お別れセレモニーとお別れ列車の出発式が14時から執り行われるためだ。自身このような場面に立ち会うのは初めてであったので非常に興奮しており、歴史的瞬間を少しでも多く記録に残そうと報道カメラマンにでもなったつもりでいた。蛍の光の生演奏に送られて列車が出発するとTV中継が始まりいよいよラストが迫って来る。とここで前面展望映像を撮らなくては、と思い付き夕方頃出雲市まで往復。暮れ行く大社駅で最後の夜を愉しんだ。
「最終列車を送る集い」 長年慣れ親しんできた地元の鉄道の廃線を憂う寂しさは察するに余りある。
1990年3月31日 大社線 大社
かつてはよく見られた「手造りサボ」。当時は何もお咎めはなかった。
1990年3月31日 大社線 大社
いよいよ陽が落ちて88年の歴史、ラストの瞬間まで数時間。周囲の人々は皆高揚していた。
1990年3月31日 大社線 大社
そういえば日中構内をうろついていると、定期の最終列車の後にもう一本、本当のラストとなる臨時列車が1往復されるとのポスターが貼ってあるのを発見した。今日最終列車を乗車した後は、昨日快適だった米子でもう一泊を考えていたのだが、運転時刻を見ると臨時列車の出雲市到着から米子までの最終列車に接続できるかギリギリの設定だった。接続を逃せば未知の出雲市駅で駅寝確定だし、本当の最終列車には絶対乗りたいし、出雲市到着後の盛り上がりも体験したいし、と様々な葛藤をこの時点から巡らせていた。とまぁ譲れない条件として最終列車乗車は絶対だったので、まだ2時間前だが行動に移し始める。さっきから列車の到着を見ていると、到着した列車から乗客を降ろさず、そのまま折り返しで出発させているのだ。とくれば数本前から席をキープしておいてそのまま列車に乗り往復し続け、最終列車では特等席になるようにした方がいい。現在駅周辺や構内は盛り上がっているものの、列車の乗客はそこまででは無いようなので、ラスト1本前から乗車し、最高の瞬間を車内から見届けることにした。
いよいよ近づく最後の瞬間。皆思い思いに過ごしていた。
1990年3月31日 大社線 大社
出雲市まで1往復し、いよいよ88年の歴史に幕を下ろす最後の瞬間になってきた。ちょうど目の前ではテレビの大量の照明を浴びながら駅長さんが腕時計を何度も確認している。そして21:48。セレモニーではない本当の出発合図を喚呼し、臨時最終列車は最後の7.5kmの旅に走り出した。沿線では花火が上がり、真っ暗な田んぼの中に多くの地元のお見送りが並ぶ。車内はそこかしこに思い出話に花を咲かせ和やかな雰囲気だ。こうした最終列車乗車は、これが人生初体験だったので感動でずっと心が震えていたのを思い出す。
そして長くも短い十数分の時間は終わり、列車は終着の出雲市に到着した。定刻では21:59着、米子行きの最終が21:59発だったため乗り継げるかはイチかバチかで、さらにこの大社線最終列車は乗降に時間がかかるなどし出雲市駅には大分遅れて到着したため、出雲市駅での駅寝を覚悟し、ならばホームで到着後の盛り上がりを体験しよう。これもいい想い出だ。と、向かいのホームを見ると、米子行きが接続待ちをしてくれているのではないか。このプラマイ0分という乗り継ぎは米子行き最終に合わせた臨時最終列車の時刻設定だったと思われる。快適な米子に向かうか、出雲市で盛り上がりを楽しむか!? 激しい一瞬の葛藤の末、米子を決断し列車に飛び乗った。米子駅到着後、昨日も寝た中2階のコンコースへ。早朝から動き回っていてテンションもずっと高かったことから時刻表を枕に横になった途端、瞬殺で気を失って深い眠りに堕ちた。
翌日はただただ帰還するだけの移動日。伯備線の一番列車、関西圏の新快速、東海圏の新快速を乗り継ぎ、22時過ぎに地元に生還することができた。今回の旅の体験は強烈に印象に刻み込まれ、自分で撮影したビデオを何度も見返しているうちいつしか葬式テツになっていった。身近で想い出のある路線という訳ではないが、長い歴史に勝手に思いを馳せつつ、地元の方と盛り上がりを楽しむ葬式テツは、昨今では社会悪として一般人はもとより同じテツからも嫌悪される傾向があるが、自分としては「まぁいいじゃないの、迷惑をかけなければ。一緒に最後の餞くらいさせてちょうだい」くらいのスタンスだ。ということで過去体験した路線廃止、運用廃止ではこの大社線を皮切りに、以下のような参加歴があります。社会人となってからはなかなか日程を調整できないので機会は減っているが、どこかで皆さんとお会いしていたかも知れません。
ご清聴ありがとうございました。
1991年 京急羽田空港駅
1991年 相模線気動車営業
1992年 岩手開発鉄道旅客列車
1994年 野上電鉄
1995年 深名線
1996年 165系大垣夜行(下り)
1997年 大嶺支線
1997年 南部縦貫鉄道
1997年 信越本線碓氷峠
1997年 川崎→木更津航路最終便
1998年 弘南鉄道黒石線
1999年 新潟交通
2001年 下北交通
2004年 東急東横線桜木町〜横浜
2010年 大糸線キハ52
2010年 京急1000形
2012年 久留里線国鉄型気動車