キハ52128の想い出


 小学生の頃、近所の図書館でよくローカル線の写真集を借りていた。そこにはいつも身近な近所の民鉄の振る舞いとは全く異なり、大自然の中を往く古びた単行の気動車や、ホームしかない辺境の終着駅の写真が紙面を賑わし、日本にもこんな鉄道風景があるんだなと純粋に感動を覚えた。世は、まさに国鉄改革による第1次〜3次地方交通線の整理が着々と進んでいた時代。その紙上の風景は、当時こうしている間にも姿を消している瞬間の只中で、最後に乗ってみたいけど小学生がそんな遠出をするわけにも行かず、ただただ消えていくローカル線を遠く想うことしかできなかった。国鉄からJRに変わった3年後の1990年3月、大社線・鍛冶屋線廃止を最後に第1次〜3次地方交通線の整理は終わり、ひとまず路線廃止という区切りが終わった。そんな頃、各地の残されたローカル線には「地域色」と言われる、ご当地カラーに国鉄型車両を塗り替えるという作業が急ピッチで進んでいた。斬新な色を纏ったボロい気動車は、ローカル線の新たな風景を産み出すかの様に思えたが、軽薄で派手派手しいカラーリングの車両には、どうしてもかつて写真集で見たローカル線の情景にそぐわないような気がして、カメラを持って遠出する気にはなれなかった。当時でも残存している国鉄色はあったが、いずれも期限付き。昨今のように「リバイバルカラー」ブームなんて考えられなく、鉄道はローカル線も含めて21世紀へ突き進んでいた。
 そんな1990年初夏。ある雑誌で山陰地方にキハ52がたった1両だけ、赤とクリーム色のツートンカラー、つまり国鉄一般色を堅持して現役であることを知った。鳥取県の後藤車両所(当時)に配置されている「キハ52128」だ。キハ58の急行色やキハ20や40系列の首都圏色=タラコはまだ当時ある程度残っていたが、一般色は当時でもこの一両を残して他は全滅していた。写真を見る・・「うほー。こりゃたまらん・・。」
 まさに小学生の頃憧れていた鉄道情景が90年代になった今でも展開されている場所があるとは・・。早速夏休みの旅程を組み立てた。

1990,8/18


 まず近くの駅で18切符を2冊購入する。これで10日間全国のJR線の普通・快速が乗り放題。続いて宿泊を考える。西日本方面なのでムーンライト系や瀬戸内海の夜行フェリーなどいくらでもある。当時はまだ野宿の技術は未熟だったので駅寝は考えていない。詳しい列車名や乗換えなどは割愛するが以下にルートを示す。

1日目:新宿から上諏訪行きの421M普通夜行に乗車 - 大糸線 - 北陸線を経て京都に夜到着
2日目:京都発多客臨「ムーンライト九州」で博多 - 原田 - 筑豊本線に残っていた50系客車列車を堪能 - 本州に渡り美祢線の仙崎まで往復 - 帰りに大嶺支線にも立ち寄る - 山陽本線の柳井で下車し港まで徒歩 - 八幡浜港行きの夜行フェリーに乗船
3日目:四国に上陸。八幡浜から予讃線、予土線、土讃線と左回りに四国を半周、高松に夜到着 - 港まで徒歩1時間 - 神戸行きの夜行フェリーに乗船
4日目:神戸青木港に到着 - 阪神電車に乗り三宮 - 旧型客車とDE10のPP運転が残っていた和田岬線に揺られて和田岬へ - 歩いて撮影しながら兵庫に戻る - 山陽本線で岡山 - 津山線・因美線を乗り継ぎ鳥取へ - 米子のコンコースで野宿
5日目:ほとんど暑さで寝られなかったので、境港線で1往復し時間潰し - 米子に戻り木次駅に電話してキハ52128の運用を聞いて衝撃の答え「今日は運用ないよー」 - 明日はあるそうなので今日みたいに米子で野宿はイヤだったので一旦京都まで戻ってお盆臨「ムーンライト山陰」で米子入りすることに決定。伯備線の臨時快速「伯耆号」というキハ58急行色の熱い走りを愉しんだ後京都に到着 - 「ムーンライト山陰」
6日目:木次線の一番列車に乗り車内からロケハンを開始 - あまりいい場所は探せず加茂中で折り返す - 昨日電話で聞いていたキハ52128が木次線549Dに入るとのことなので始発から乗りたいと思い松江を目指す。 - 松江で初対面!!

という旅程で6日目にしてようやくキハ52128の美しいツートンカラーに出会えた訳だ。駅撮りをした後、車内へ。




本当に感激した。誕生から25年。伝統のカラーを守り続けたキハ52128とやっと出会うことができた。
1990,8/18  山陰本線   松江   EOS630   28-70mm


  
ワンマン改造のため、キハ52の特徴である前展席は撤去されていたのが残念。

  いよいよ松江を出発して宍道から木次線に入る。この52128は冷房改造されていなかったので全ての窓を全開して涼を取る。生暖かい風に乗って田んぼの匂い、トンネルではディーゼルの排気の匂い、虫の声。本当に楽しい時間を過ごした。今ではこんな経験できないだろう。お盆で混雑する車内だが皆どことなく楽しそうだ。しばらく走って沿線の中核都市、出雲横田に到着。時間調整のために10分以上停車するので外に出てみた。



出雲横田で駅撮り。後の見事なハエタタキに注目していただきたい。20年前の日本のどこにでもあった光景。
1990,8/18  木次線   出雲横田   EOS630   28-70mm



この愛らしいマスクで大好きだったキハ20系列。(構内踏切から撮影)
1990,8/18  木次線   出雲横田   EOS630   28-70mm

 ふたたび愛すべきキハ52128は山間に向かって出発。途中3段スイッチバックで有名な出雲坂根で途中下車し、今乗ってきた列車を見送る。ここで降りたのはスイッチバック俯瞰で、備後落合から折り返してくる52128を撮影するためだ。現在国道は「おろちループ」なる立派なループ橋で高度を稼いでいるが、当時はまだ九十九折の細い林道のような道が国道だった。その国道を汗を流しながら登坂。列車を無事撮影することができたが、当時の写真やビデオを見てもスイッチバックを行くツートンカラーの姿は無く、今となっては何故記録に残っていないのか不思議でしょうがない。
 初めて出会えた国鉄一般色。再訪を誓って山陰を後にした。




1991,3/30〜31

 今回の春休みも当然あの一般色に出会うたびに向かった。今は無い九州ワイド周遊券を使って、行きは贅沢に「はやぶさ」のソロなんかに乗ってしまった。本来ワイドを使うことから当然メインは九州の乗り潰しであったが、九州からの帰り道に友達から譲ってもらった青春18切符2枚で山陰地方を訪問してみた。一番列車で下関から山陰本線で東進。宍道には夕方着いたので、キハ52のタラコ色に乗って木次まで一往復してみることにした。



33パーミルの勾配がある木次線では2エンジンが使用される。当然128以外の52もいて、タラコもあった。
1991,3/30    木次線   木次   EOS630   35-105mm


 この木次往復の後、前回も宿として使った米子駅コンコースで地べたに横になっていると、なんと昨年末から深夜の構内締め出しを行っているそうで、3月の寒空の下に追い出されてしまった。駅の軒下でうずくまっていたが余りに寒く、全く一睡もできないまま朝を迎え、18切符2枚目に入鋏してもらい駅構内に入り、やって来た急行だいせんの末端普通区間に乗車、宍道で下車した。前日キハ52128の運用は聞いていたので駅進入を待ち構えようと1駅行った南宍道で下車。今乗ってきた一番列車が加茂中ですれ違ったツートンカラーがやって来た。昨夏と全く同じ松江発の549Dに入るので、そのまま128に乗車。松江から52128の右側窓際に腰掛けた。



50系客車も健在だった。だいせんを降りた宍道で撮影。蒸気暖房(SG)も現役だった。
1991,3/31    山陰本線   宍道   EOS630   35-105mm

 前回と同じく出雲坂根で52128を見送り、スイッチバックの俯瞰場所に登る。やがて峠から備後落合で折り返してきた52128が下ってきて、約10分間の撮影タイムだったが、現像された写真を見るとどれもピンボケで3度目のリベンジを誓ったのは言うまでもない。



スイッチバック俯瞰を下山して一旦備後落合まで往復してみることにした。やってきたのはタラコ52。左に有名な延命水が見える。
1991,3/31    木次線   出雲坂根   EOS630   35-105mm



出雲らしく神殿造りの出雲横田駅舎。時折通票扱いのチンチンボンボンが静かに聞こえる。
1991,3/31    木次線   出雲横田   EOS630   35-105mm
 



1991,8


 本当に高校時代はバイトに明け暮れ鉄道旅行ばかりしていた3年間だった。この夏も18切符を2冊使った九州、四国、西日本を巡る10間の旅。7日目の三江線の秘境駅として名高い宇都井駅下車の目的を果たした後、どこかの良さげな無人駅があったらそこで降り、寝袋もないまま駅寝しようと芸備線の下りに乗り込み、車内から停車する駅ごとに寝られるかどうか確認。しかしなかなか踏ん切りがつかないまま、車窓はどんどん山深くなっていくばかり。とうとう終点の備後落合に到着してしまった。この備後落合は木次線と芸備線の接続駅、いわばジャンクションだが駅周辺は全くの無人地帯で潰れた商店があるだけ。しかしここでマルヨする列車もあるので駅は有人駅。そのため当然夜中は追い出されることが予想されたので、事前に駅員さんに駅舎内で泊めて欲しいと頼んでおいた。真夏なので駅舎の窓は大解放。光に誘われて集まってきた巨大な緑色の蛾やその類の大群が待合室を我が物顔で占拠していて、耳元をブンブン音を立てながら粉を撒き散らしていた。当然熟睡できない。うたた寝程度を2時間ほどしていると、ようやく朝になって蛾達は山へ帰っていった。やがてこの駅で滞泊していた、お目当てのキハ52128が出発準備に取り掛かりドアーが開いた。











   
いずれも542D出発前の朝のジャンクション駅の光景。
1991.8    木次線   備後落合   EOS630   35-105mm

 清々しい朝の空気を吸った後、542Dに乗り込み峠を下った出雲坂根でいつものように下車。今行った52128の542Dは出雲横田で折り返し、このスイッチバックに戻ってくる。3度目の国道314号を登りセミの声をバックに列車を待つ。晴れている。今日こそは失敗できないと自分にプレッシャーをかけながら列車を待った。



坂根で下車し一旦見送る。この列車は出雲横田で折り返し再びここにやって来る。
1991.8    木次線   出雲坂根   EOS630   35-105mm



盛大な排気音と裏腹にゆっくりゆっくり勾配を登って出雲坂根に進入する。
1991.8    木次線   出雲坂根   EOS630   35-105mm

     
(左)出雲坂根を出発して2段目。          (右)折り返し線でバックして3段目に挑み三井野原に向かう
1991.8    木次線   出雲坂根   EOS630   35-105mm



出雲坂根から宍道へ。途中出雲横田の長時間停車でスナップ撮影。腕木信号と駅員氏の持ったタブレットが当時の木次線らしい。
1991.8    木次線   出雲横田   EOS630   35-105mm


 とまぁこんな感じで念願だった3段スイッチバックを往く52128を収めたあと、山陰本線を日がな乗り通して、新大阪から新宮夜行の165に揺られ紀伊半島を一周。横浜には次の日の夜に到着した。


 翌年1992年8月の夏休みにも木次線に4度目の訪問。当然18切符を使用しており、急行「砂丘」撮影目当てで訪れていて、そのついでに木次線にも立ち寄った。どこかでいい場所は無かろうかと出雲横田で下車して線路沿いの道を1時間以上ひたすら歩き続けたが、結局撮影地は見つけられず藪に半分隠れたキハ52128を無理矢理撮影し、酷暑でヘロヘロになりながら駅へと帰ってきた。時間的にもこれ以上滞在するわけにはいかず、泣く泣く山陰地方を後にした。これから7年後の1999年、境港線の運行を最後にキハ52128は21世紀を待たずして引退。生涯ずっと国鉄一般色を守り通した孤高の車両であった。全国から一般色が消えたこの年から3年後の2002年。盛岡に一般色のキハ52が奇跡の復活を遂げ、その後も新津、糸魚川、水島臨海、島原、茨城交通などのキハ52を含むキハ20系列が塗色変更されて今に至る。でも本当のオリジナルはキハ52128が最後。そんな頑固一徹なキハ52128は、思い入れひとしおだった。




1992年に訪れると世代交代の波が押し寄せていた。軽快気動車キハ120と、珍車、キハ531。
1992.8    木次線   出雲横田   EOS630   35-105mm