長大4線を制覇する、北海道ワイド周遊券の旅
1989.3/27
正直、この旅のことをここで記事にするには少なからず躊躇があった。ろくな画像としての記録がほとんど残っていなかったからである。なぜか、の理由は後述するが、とりあえず30年以上過去の記憶を遡ることにした。書いていくうち、新たな記憶の引き出しが開く、というのは経験があるからだ。
平成最初のゴールデンウィーク。北海道に残されていた最後の整理対象の地方交通線、天北線、名寄本線、地北線、標津線が廃止されることになっていた。いずれの線区も営業キロ100kmを越えており、総称して「長大4線」などと呼ばれていた。僻地の開発に長年寄与し、特徴的な風土を行くローカル線をどうしても乗り通してみたかった。しかしながら学業不振にあえいでいた当時の自分は、いつものことながら親の許可がおりず、これまたいつものように「勉強頑張るから!!」と心にも無いことを言い、懇願し続けた結果、ようやく春休みに入って数日経ったある日許可が下りた。しかし当然行く先は遠い遠い北海道、さらに春休みという限られた日数から貧乏学生の味方である青春18きっぷでの渡道は断念。なので床に頭をこすり付けながらさらなる懇願で借金まで背負い、北海道ワイド周遊券で旅立つことになった。おととしの夏に北海道を訪問した際に使用したワイド周遊券は、地元のある規模の駅だったので、すでにマルス機による発券だったが、あれから2年、分別も付いた身としては、常備券をどうしても入手したかった。ちょっと郊外の駅へ足を延ばせば置いてあろうと、出発前のある日の放課後、チャリンコを漕いで横浜線の各駅を当たってみることにした。すると以外にも数駅目の鴨居駅で待望の北海道ワイド周遊「常備券」をゲットすることができた。
で、その数日後。2年前の夏に急行津軽を待っていた上野駅ホームにいた。あの時はお盆真っ只中で、数時間前から並んだにもかかわらず、着座できなかった痛い経験があったが、本日はただの春休み。学生の旅行者もいるだろうが盆ほどの混雑ではないことを予測して、目当ての列車出発の2時間前に到着した。予想通り列は出来ているものの、座席確保はもちろん窓際までキープできそうな程度の乗客の並びだった。やがて尾久から14系客車が推進運転で入線。車内の人になり、いよいよ21:38。青森に向けて東北本線経由、急行「八甲田」が出発した。

ご存知の方は恐らく30代以上の年齢かと思うが、ワイド周遊券にはA券とB券で構成されていた。A券は出発地から周遊区間までの行きの乗車券。B券は周遊区間内のフリーパスと帰りの乗車券。フリー区間内では特急の自由席とJRバスが乗り放題、また周遊区間までの往復は急行列車が追加料金無しで利用できたし、東海道線と並走する往復路を持つワイド周遊券はドリーム号や名神の高速バスも使えた。

急行八甲田を待っていると先行の北斗星が出発していった。
東北本線 上野 1989.3/27
1989.3/28
写真のA券には仙台の下車印が残されているが、全く記憶に無く、日が昇ってから大分経った9:08、青森駅に到着した。現代なら新幹線で3時間ちょっとの青森まで、14系客車に揺られ11時間以上かけて到着した。さて、これからどうやって北海道へ渡るのか。ワイド周遊券なので当然、青函トンネル経由の快速「海峡」に乗るかと思いきや、敢えてフェリーで渡道することにした。というのも実は昨年3月に廃止された青函連絡船を、昨年夏の間だけ1日2往復の復活運航が行われていた。廃止フィーバーの際、すっかり青函連絡船無しでは生きていけない体になっていたので、もう一度あの連絡船を思う存分堪能するぞと、青春18きっぷ、往復のムーンライトえちごの指定券まで用意していた。しかし学業不振、遅々として進まない夏休みの課題・・・。当然のことながら親から許可が下りない上に罵詈雑言を浴びせられ、泣く泣く18きっぷと指定券を近くの駅まで払い戻しに行ったのだった。もちろん手数料も取られ、自暴自棄になり絶望し、そのショックから立ち直るために、今回はせめて民間の東日本フェリーを利用し心の傷を癒すことにしていた。東日本フェリーの機材はどれもオシャレな装いで、当時としては短距離航路でも最新の設備を備えたフェリーばかりだったので、これも少し楽しみにしていた。駅から港までは若干距離があるため、たまたま駅前に停まっていたフェーリーターミナル経由の路線バスに揺られ、港に到着した。鮮やかな塗色の船体が何隻か停泊している。これから乗るのはどの船なんだ?と期待しながら乗船手続きをし、出港案内の掲示板を見ると、・・・? 多くの青函航路や室蘭行きの船名は、どれもギリシャ神話を由来とした優雅な名前であったが、乗るべき12:35発函館行きの船名だけ、漁船のような「第○○青函丸」と表記されていた。なんだかイヤな予感。しばらくして乗船手続きが開始されると、やはりさっきから停まっていた白黒塗分けのボロ船だった。船内もかなりくたびれていて、升席のカーペットも黒ずんでいる。船室に窓は無く、乗ったことはないが、まるで古い貨物船か漁船のようだった。このためにわざわざ別料金でフェリーを選んだのに、と後悔しきりのうちに青森出港。

出航時デッキから。くたびれた船内は常に油の臭いが漂っていた。
青森港 第??青函丸船内 1989.3/28

ああいうのに乗れると思っていた・・・。
青森港 第??青函丸船内 1989.3/28

海峡ですれ違う同じく東日本フェリー。旧船で運用されているのは本船だけだった模様。
津軽海峡上 第??青函丸船内 1989.3/28
ここまで、お気づきだろうが、写真がどれも酷い様相だがこれには理由があり、先述したこの記事を載せようか迷った原因でもある。実はこの旅の直前に購入したばかりのカメラのせいである。当時、近所に怪しくも激安の品揃えのホームセンター(現倒産)があり、定期的に新聞の折り込みに、セール品入荷とかのチラシが入っていた。いつも楽しみにしていたのだが、ある日、最新全自動望遠レンズ、フラッシュ付き小型カメラが2000円で販売開始!と掲載されていた。今考えれば全自動といってもこの価格なら固定焦点、固定露出の写るんですのようなものだろうし、望遠レンズというのもワイド・テレのプラスチックレンズの切り替えだろうと容易に想像できるのだが、幼き少年にはそのような知識は皆無で、「望遠」という言葉と、チラシ画像のカメラのスマートな姿に魅了されてしまい、早速入ったばかりのお年玉を握りしめて、そのホームセンターに向かいゲットしたのだった。パッケージには白人の女性がトップレスで微笑んでいるという謎のセンスで、子供心にもこれは無いなと思い、帰宅してから親に見つからないよう開封すると、やはり固定焦点・露出の写るんです仕様で、さらにフィルムはポケットフィルムとか110(ワンテン)呼ばれていた幅16mmの小型カメラ用の物だった。同梱でストラップと、見たことも無いメーカの単三電池。それに現代ではAmazonなどでおなじみの、メチャクチャな日本語で表記されている取扱説明書が付属されていた。フィルムは北海道行きも決まっていたし、暗い場所での撮影もするだろうからと、ワンテンでは珍しいISO200のフィルムも調達した。もうここまでくれば仕上がりは当然の結果。35mmよりも遥かに小さいフィルム面積、それに加えて感度200というのだからもう見るに堪えないモザイク画のような出来だった。またファインダーもレンズはなくただの穴で、望遠側に切り替えると視界を狭めるための窓が出てくるだけのものであり、かなりチープなものだ。さすがにこれでは頼りなく思え、いつも使っている3000円で買った35mmのローライの中古も併用することにしたのだが、もう完全に予算は無く、仕方なしに35mmはISO100の24枚撮りを調達するのが精一杯だった。
さて、憧れの青函航路で散々に期待を裏切られ、ワクワク感が全くないまま函館港上陸。函館駅まで1時間ほど徒歩で移動した後、札幌行き特急「北斗13号」乗車。待っていたのはキハ183後期型500番台。つまり運転席真後ろ前展席があるためすぐに移動。目出度く確保することに成功した。17:00、北斗13号出発。現代とは違い、全体的に灰色の市街地を抜け、山越え区間に。右手に暮れなずむ噴火湾沿いにスピードを上げていく前展風景は本当に心に残るものだった。すっかり暗くなった20:38、札幌着。2年前に訪れた時は地平駅の大ターミナルという感じで味があったが、高架駅に切り替えが完了されていて全てが新しかった。さて今夜の宿は網走行き急行「大雪」。しかし出発まで2時間以上あったのと、今日一日何も食事していなかったため、ホーム上の立ち食いソバを目指す。するとメニューにはソバとうどんの他に、ラーメンの文字が。首都圏には現代よりもより多くの駅に立ち食いソバの小さな店があり、かけそばは子供のお財布にもやさしい200円程度であったので、身近な腹ごしらえとして馴染みがあったのだが、札幌ではラーメンが300円という破格の値段だった。ラーメンはラーメン屋に行かなければ口にすることはできなかったので、特別な食事、という認識だったので、迷いなく注文。煮干しラーメンのしょう油味という感じがして大変旨かった。

これから乗車する急行「大雪」をTELE側で使うとこんな感じ。多分固定焦点のためF11とかの暗いレンズだったのだろう。
函館本線 札幌 1989.3/28
ローライで撮るとかなりまとも。コンパクトカメラながらもF2.8が効いている。これ1本にしておけと、当時の自分に小一時間ほど説教してやりたい。
函館本線 札幌 1989.3/28
急行「大雪」は、往路に乗車した急行「八甲田」と同じ14系を使用しているが、この大雪の座席も簡易リクライニングシートと呼ばれる、今では見かけることの無いイスだった。通常のリクライニングでは任意の角度でレバーを離すと、その姿勢を保ってくれるのだが、こちらはレバーは背もたれのストッパーとしての機能しかなく、途中で角度を止めることをできない上、倒している時に急に立ったりするとガコン!と元の位置に戻ってしまうのだ。簡リクとも呼ばれていたが、12系のボックスシートよりは遥かに快適だった。急行「大雪」乗車。車内はさすが春休みとあって8割くらいの乗車率で札幌を22:50出発。今日はかなり緊張感を持って乗車した。それは明日、名寄本線の1番列車に乗るため、深夜の遠軽で途中下車しなければならないのだ。車内で時計のアラームを鳴らすわけにもいかないし、また現代ならスマホをバイブにすれば済むだけの話だが、この深夜の途中下車はこの旅最大の課題でもあった。そこで実行した方法とは!
まず・・・
@母親の寝室から卓上目覚まし時計(5cm四方くらいの小さいやつ)を盗む。
A父親がたまにラジオを聞くときに使っていた耳垢の詰まったイヤホンを盗む。
B卓上時計を分解してアラーム音を発する薄い圧電スピーカーの配線を切る。
Cその配線にイヤホンを半田付けをする。
試しにセットしてみると見事に作動! これなら周囲の誰にも迷惑をかけずに目覚まし時計として起こしてくれるのだ。心配なのは寝ている最中にイヤホンが落ちてしまうことだけだが、これしか選択肢はなかった。札幌を出てすぐ、遠軽途中下車専用目覚まし(改)アラームを到着10分前にセットし、イヤホンを念入りに耳に押し込む。幸い隣りに乗客が来ることが無かったため、ひじ掛けを枕に横になると、疲れていたせいもあってあっという間に深い眠りについた。
1989.3/29
翌朝、無事にアラームは耳元で作動してくれて目覚めることができた。3:58 遠軽着。さてここからは今回の旅の目的の一つである廃止間近の長大4線の、名寄本線に乗っていく。名寄本線が廃止された遠軽駅は、現在石北本線のスイッチバック駅として取り残されているが、当時は「その先」があったのである。さて「大雪」に接続する目的からか名寄本線始発列車は4:40と早いのものの、廃止一か月前ということもあり、記念乗車目的で降車した旅行者はかなり多かった。スイッチバックのため機回ししている列車を横目に、まだ40分時間があるので待合室で時間を潰し、やがてやって来た始発列車に乗り込むと、ボックス席はほぼ埋まるぐらいになっていた。道東とは言え、この季節は外はまだ暗く、車窓を楽しむことはできない。明るい時間に乗りたいなら「大雪」を網走まで戻って来るか、遠軽で時間を潰して次の列車に乗るべきなのだが、なぜ真っ暗闇を行く始発列車に乗ったのか。ある目的があったのだ。
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私の大事な宝物、交通公社1983年1月号。今とは比べ物にならないくらい賑やかだった道東地区。
列車は20分ほど走り、途中駅の中湧別に到着。中湧別は、名寄を目指す本線の他に、過去にサロマ湖沿いに網走を目指していたが当時すでに廃止されていた湧網線(ゆうもうせん)、同じ名寄本線という名称であるけれど海側の湧別まで目指す名寄本線湧別支線の、計3路線が分岐するジャンクション駅だった。当然この湧別支線も本線と同時に廃止になるので乗っておきたいのだが、1日2本と列車本数が少なすぎ、また湧別の折り返し時間も5分程度と短かったことから、ただ単に往復乗車するだけでは物足りないと思い、あることを思いついたのだ。

中湧別に到着すると、他の数人の旅人も降りた。記念に硬券の入場券を購入したあと駅舎から出ると少し雪が降っていたが、寒いものの特にしばれるほどの記憶は無かった。昔の天気概況を調べることができる気象庁の「過去の気象データ検索」のサイトから、この日この時間の気温を調べると0℃前後とのこと。さてストーブが焚かれ暖かい待合室を出、湧別方面へ歩き、駅から少し離れた踏切でいよいよ線路上を歩きだす。そう、あることとは支線の始発列車が来る前に線路上を歩いて湧別に向かい、やって来た始発の1番列車で中湧別に戻るという計画だ。今やったら大問題だが、当時は地方に行くと、地域住民が当たり前のように線路上を生活道路として使っていて、無人駅などで降りた乗客は列車がまだ見えていても、普通に線路に降りて家路に就く光景がよく見られた。中にはトンネルや橋梁も渡っているお年寄りも目撃したことがあったので、全く抵抗とか後ろめたさは無かった。

軌道に進入した踏切から振り向いて撮影した中湧別構内。左の線路がまっすぐ湧別を目指す支線。今立っているのは背後でカーブしながら海沿いを走り、紋別、名寄を目指す本線。
名寄本線 中湧別 1989.3/29

中湧別からひたすら真っすぐにオホーツク海の街、湧別を目指す。
名寄本線湧別支線 中湧別〜四号線 1989.3/29
この湧別支線の営業距離は4.9km。徒歩で1時間ちょっとの距離。始発列車の中湧別到着から湧別発まで約2時間あったので可能と踏んでおり、出発前から計画を立てて楽しみにしていた。雪はしんしんと降り続き、時折立ち止まってみると、完全な無音の世界だった。どれくらい歩いただろうか、今までずっと原野を貫く線路を進んできたが、周囲に少し民家が増えてきたその先に、このハイキングの最大の楽しみでもあった、ある駅(?)との遭遇である。

北海道にはそのまんまの駅名やバス停名が多い。ここもそのうちの一つ。
名寄本線湧別支線 四号線 1989.3/29
「四号線(しごうせん)」 北海道のみに存在した仮乗降場だった駅である。仮乗降場とは、超端的に言うと、国鉄時代、地方の鉄道管理局が、あまり利用者が見込めない地域の便宜を図るために設置した乗降場のことで、正式な駅でなく、国鉄本社も全て把握していなかったと言われており、また時刻表にも記載が無い乗降場も多数あった。運賃の算出も隣駅のキロ程から算出するなど、特殊過ぎて仮乗降場マニアというジャンルもあるくらいだ。写真のように待合室はおろか屋根さえなく、短い板張りのホームがあるのが普通だったようで、いわゆる朝礼台といわれるものが多かった。しかしJRに移行する際、さすがにモグリの駅を放置するわけにもいかなかったのだろう、道内の仮乗降場は全て駅に昇格。この四号線仮乗降場も、晴れて四号線駅となったのはつい2年前のことだった。

ハンドメイド感あふれる駅名標。列車は7時台の始発と16時台の最終の2本のみだ。周囲には意外と住宅が建っている。
名寄本線湧別支線 四号線 1989.3/29
この四号線は予てより文献などで知っており、いつかは訪問したい駅だった。写真はこの2枚しか撮らなかったものの舐めまわすように観察したり、ホームに上がって列車を待つふりをしたりして15分くらい滞在した。再び歩き出してすっかり周囲が明るくなってきた頃、ようやく湧別駅に到着。木造の古い駅舎が残っていたが、有人で待合室にはストーブが焚かれていた中湧別とは違い、無人のこの駅はとても寒く、早く列車が来ないかとベンチに座って凍えていた。やがて7時を過ぎるとキハ22が単行でやって来た。ドアが開くと一斉にマニアが飛び降りる。折り返したった5分なので可哀そうに・・・オレは充分堪能したよ、と優越感に浸りながら1枚だけ写真を撮った。

穴だけファインダーは信用ならない。ダメ、ゼッタイ! 貴重なシーンも最悪な結果に。
名寄本線湧別支線 湧別 1989.3/29
列車に乗り込み遠軽を目指す。これから中湧別より先の名寄本線に乗車するのだが、中湧別での接続が悪く、遠軽まで戻っても同じ列車に乗ることになるので、寒さ対策のため起点まで向かう。遠軽で2時間ほど潰して、いよいよ全線138.1kmを3時間以上かけて走破する626Dに乗車。冬のオホーツク海を右手に眺めながら、各街を繋いで行く。交換などである程度の時間停車する際にはすかさず周遊券を持って列車を降り、改札まで走り、下車印を押してもらうことに専念した。興部(おこっぺ)を過ぎると線路は海から別れ、坦々と原生林の中を進んでゆくうち、朝から活動していたせいもあって疲れており、ついて堕ちてしまった。後半はほとんど記憶にないまま12:58 名寄着。これからもう一つの長大4路線の一つである天北線に乗車する。
名寄駅では1時間半ほど時間を潰し、稚内行き天北線経由、急行「天北」に乗車。かつてはDD51牽引14系を使用した、当時でも珍しい昼行客車急行であったが、昨年、キハ40を大出力に改造したキハ400に置き換えられた。車内はリクライニングシートに換装されているため座席の位置と窓が一致していない、車窓を楽しむ乗りテツにとって運が試される車両であるが、途中駅から乗ったことと、さらに廃止フィーバーもあってか車内は大混雑。ちょうど中間連結の運転助手席が開放されていたので、そこに陣取った。車内は熱気と効きすぎる暖房で暑くてたまらず、乗務員扉の窓が開けられて非常に助かった。列車は宗谷本線最大の難所でもある塩狩峠を、ハイパワーエンジンでいとも簡単に克服していき、15:14 いよいよ宗谷本線との分岐駅、音威子府に到着した。このまま乗車してゆけば天北線乗車は叶うのだが、稚内到着が早すぎることと、ゆっくりと各駅の様子を楽しみたいと思い、天北線の普通列車に乗り換えることにしたのだった。まだ出発まで時間があるのと、今日も一日何も食べていなかったため、構内の立ち食いソバで腹を満たすことにした。空腹は最高の調味料、などとも言われるが、今まで食べたことのないような風味豊なソバで、美味さに感動した覚えがある。そう、これがかの有名な音威子府のソバと知ったのは、かなり後になってからのことだ。残念ながら2022年に廃業してしまったと聞くが、1990年の春の北海道旅行でも、この駅ソバを喰うためにわざと音威子府で下車したこともあった。

急行「天北」が音威子府を出発。ここから数々の駅でタブレット通過授受を繰り広げて行く。
宗谷本線 音威子府 1989.3/29
16:21 天北線経由稚内行き729D出発。天北線はそのまま直進方向でオホーツク海側の都市を目指し、一方宗谷本線は左に大きくカーブして別れて行く。これは天北線が稚内を目指すルートとして先に全通しており、現在の宗谷本線は4年後に遅れて開業したためだ。さて音威子府を出発するとすぐに小さな峠越えの体制に入る。のんびりと夕暮れ迫る原生林の中を進む列車内は、さきほどの「天北」と打って変わって10人にも満たない程度。半分がマニア、半分が地元乗客といった感じだ。駅に到着するたび疎らな民家の灯りが見えるが、走行中の車窓はほとんど真っ暗だった。いくつかの駅で下車印集めをしながら、148kmを約3時間半かけて走り抜き、終着稚内に到着したのは19:55だった。今夜の宿も当然夜行急行。札幌行き急行「利尻」だ。
2時間以上、何をして時間を潰していたのか。現代だったらスマホでいくらでも好きなコンテンツを楽しむことができるが、自分も含めそうだったが、当時の旅人は小さい文庫本とかを幾冊か携えている人が多く、待合室や列車内で読書に耽っている姿をよく見たものだ。自分はいつから本を読まなくなったのだろう。もっとこういった習慣を続けていれば、もう少しまともな大人になっていたと思うし、もっとこう、なんていうの? こういう・・あの−−− 豊富な語彙と知的な文章を紡ぎだせるようになっていたかも知れない。
やがて乗り込んだ急行「利尻」の乗車率は50%程度。道内の夜行バスもまだまだ黎明期であったため4両編成の利尻はなかなかの需要であった。2007年に宗谷本線系統の夜行列車は廃止となったが、この時の利尻は14系客車4両、うち1両は寝台車であった。網走行き急行「大雪」や釧路行き急行「まりも」、青森行き「はまなす」などの道内各地を結ぶ夜行急行には2両、ないしは1両のB寝台車が連結されていた。2年前の夏の北海道旅行の時もそうだったが、知り合った旅人の中には「昨日は大雪の寝台だった・・」とか話す人もいて、節約のため1日1食を基本に活動している自分にとっては、5000円とか6000円を快適に寝るためだけに支出する大人たちは雲の上の存在で、自分もいつかは大人になったら・・・と思っていたが、大人になったら寝台列車自体がなくなっていた。
というか今日は本当に濃厚な一日だった。早朝の湧別支線を踏破し、爆睡してしまった名寄本線、真っ暗闇の天北線を経て、最北の地、稚内まで辿り着いたのだ。あと2線残っているのだが、写真としての記録がほとんど無いことから、ここから少しペースを上げるとする。
1989.3/30
稚内から夜通し走り続けてきた急行「利尻」は6時ちょうど、札幌駅に到着。今辿ってきたルートを逆行すべく特急「オホーツク1号」に乗り込む。道中ほとんど覚えていないが、終着網走の手前、北見で下車した。11:36だった。北見でも接続待ちのため待合室で空腹を忘れるため読書に集中。1時間半ほど時間を潰すと、地北線の改札が始まったと放送が入り、すぐにホームに上がると各ドアの前にはすでに長蛇の列ができていた。これから始まるのは140km、3時間20分の旅。ほとんどがお別れ乗車のように見受けられ、自分と同じように終点の池田まで乗り通すのだろう。立席だけはゴメンだ。ドアが開き一斉に車内へ突入すると、先客の一人のマニア氏がボックス席1つを大量の荷物で占拠しているところだった。他を探そうにもその間に座席が埋まってしまう可能性があり、勇気を出して「スイマセン、一つ開けてもらっていいスか?」と尋ねると、あからさまにイヤな顔と舌打ちをされ、進行方向反対側の、しかも通路側を空けてくれた。さらにもう一度「窓際、いいスか?」というと渋々無言で荷物を動かしてくれ、何とか景色を見られる席を確保することができた。13:28 池田行き934D出発。車内は立ち客が大勢いる中で、そのマニア氏は3つの座席を体と荷物で占領しているが、そんなことは周囲の人には分るはずもなく、自身の荷物と思われているのだろうと想像し、周囲の冷たい視線が痛すぎる。その荷物、何が入っているのかパンパンにふくれた巨大なボストンバック。それと手提げの紙袋4つほど。そして極めつけは何故、鉄道旅行に必要なのか理解不能なドでかいラジカセ。あの・・分かります?カセットテープを2つ入れることができてCDも聞けて左右に大きなスピーカーがある黒い筐体。単一乾電池を6本くらい使うヤツで「ドデカホーン」といってピント来た方は40代以上でしょうか。そんなこんなで列車は北見平野を進み、山間へと突入する。ここまで大き目な集落の駅を過ぎても、ほとんど下車する乗客は無く、相変わらず横に立っている方達はこちらを睨んでいるような気がするので、いつものように眠くなることが無い一方、景色があまり脳に入ってこなかった。途中いくつかの駅で10分程度の交換のための停車があり、乗客たちのほとんどは写真撮影や下車印収集のために列車を降りる。向かいの座席占拠マニア氏も同様に席を外すので、自分も唯一の手荷物であるリュックに場所取りをさせて下車印や入場券などを手に入れた。しかしこの後の旅程を考えてフィルムの消費を押さえようと、この地北線の画像は一切残っておらず、たった一つ、地北線に乗車した証として手元にあるのは陸別駅の入場券だけだった。

池田到着 16:49 すぐにやって来る上り特急のホームへと急ぐ。多分、座席占領マニア氏も自分と同じ列車に乗ろうとしていることは明白だが、大量の荷物の撤収に手間取っているようで大勢の乗り換え客に遅れをとることになったようだ。ザマーミロだ。 池田駅から乗った特急「おおぞら12号」は札幌着 20:15。今日もホーム上の立ち食いラーメンをおいしくいただいた。さて今夜は急行「大雪」でもう一度網走を目指す。出発は 22:50だ。
隣りのホームからは今朝乗って来た急行「利尻」が先の出発。
函館本線 札幌 1989.3/30
1989.3/31
翌朝6:22 快晴の網走駅に到着。ここまで連れてきてくれた列車を撮影し、すぐに接続する釧網本線625Dに乗車。しばらく走ると流氷が迎えてくれた。始めてみる光景に感動。
原色DD51の牽く夜行急行。あと10年早く産まれていれば、作品として残すことができただろうに・・
石北本線 網走 1989.3/31
これから乗車する釧網本線625D。隣りには札幌行き「オホーツク2号」が出発準備をしている。
石北本線 網走 1989.3/31
よーく後ろを見るとキハ22が連結されている。あっちに乗ればよかった。
途中網走行きと交換。ホームには何人か通勤客がいるが、現在輸送人員は当時の1/3となっているそうで、今はどうなっているんだろう。
釧網本線 緑 1989.3/31
網走から乗り込んだ625Dは、やがて低い峠を越えて標茶に9:16到着した。これから乗車するのは、この旅最後の長大4線である標津線である。標津線は時刻表でも判るように支線が存在するが、先の名寄本線の湧別支線とか石勝線の夕張支線のような、本線にちょろっと生えた枝線ではなく、69.4kmの本線に47.5kmの支線がつながる、Y字の形をした路線だ。これから標茶から本線で根室標津を目指し、折り返し厚床に向かう支線に乗車する予定である。お別れ乗車で座席がほぼ埋まり、10:32 4327D出発。どこかの交換駅でしばらく停車とのことだったので、下車印と対向列車を撮影することにした。この時代の北海道のローカル線は、交換のために当たり前のように10分とか20分停車する列車が多々あり、今となっては駅舎とか駅周辺とかも記録にもっと残しておけば良かった。
撮影場所の記録は残っていなかったが、本記事を記すにあたり調べると「西春別駅」であることが判明。標茶行きが入線してきた。
標津線 西春別 1989.3/31
支線の分岐する中標津を過ぎると、当時でも有名だった川上〜武佐に存在した原野を一直線にアップダウンするジェットコースターのような線形を、少しでも体験してみようと、自分も含め車内の何人かはキ、ハ22の重い二重扉を開けて身を乗り出してみたが、走っている列車からはそれを体感することはなく、望遠で正面から狙ってこその名所だったようだ。すぐに根室標津到着。規模の大きい街の中心部だったため、モルタル造りの駅舎はとても大きく見え、北方領土を控えた根室海峡の一大拠点であることを感じた。24分の折り返し後、今度は厚床支線直通の354Dに乗車。沿線は広大な原野と湿地帯、灌木が生い茂る大地を走りながら、根室本線の厚床駅に14:12に到着した。

駅名標なんか撮っていないで、もっと当時の情景とかを感じさせる物を撮っておけば・・・
標津線 別海(車内から) 1989.3/31
厚床からは1日4本の厚床支線に偶然接続しているのか、20分乗り換えでやって来た急行「ノサップ」に乗車する。当時としてはまだデビュー3年目と新しいキハ54が使用されており、急行らしく転換クロスシート式を備えた車両であったがリクライニングも無く、普通列車にも当たり前のように充当されていたことから、たいして速くもない列車が急行とついているだけで課金が必要とは、当時としては18きっぷだったら絶対に利用しない列車だ。まぁまぁな軽快な走りで15:11、根室に到着した。標津線乗車で長大4線完乗は叶ったので釧路方面へ帰還することも出来たが、せっかくなので日本最東端の街に行ってみたいと思い、初めて降り立ったのだ。寂しい駅周辺にはそれなりに活気があるものの、最果ての街らしい佇まいが印象的だった。さて、帰りの列車まではまだまだ時間がある。そこで時間つぶしにと思い、日本最東端の駅として知られる東根室駅へ徒歩で行ってみることにした。時刻表のキロ程でも1.5kmとあるので楽勝だろう。地図も持っていない上に、線路と道路は並走していないので、方角だけを気にしながら住宅街の中を進んでいると、開けた土地にでた。その片隅に小さな階段とホームを発見。待合室も無い日本最東端の駅。東根室までやって来た。最果てと聞いて最果てなイメージを持っていたが、市内中心部から近いこともあってか、住宅地の真ん中にあるような立地だった。
東京からだと鉄路で1500km超! はるばる来た感で胸がいっぱいだった。・・・ていうかオレ線路に降りて撮ってない?
根室本線 東根室 1989.3/31
ホームで待っていると下り列車がやって来た。これで根室に戻る。
根室本線 東根室 1989.3/31
もともと列車数が少ないので、屋根も待合室も無い最果ての駅で2時間を潰し、下り列車がやって来たので根室まで乗り、折り返しになった釧路行き最終列車533Dの乗車。この列車が釧路発夜行急行「まりも」に接続する。ほぼ真っ暗闇を2時間45分走り抜き、釧路に到着。22:28発の急行「まりも」に向かい、翌朝、札幌から特急「北斗2号」、函館で快速「海峡8号」に乗り換えて人生初の青函トンネルへ。「海峡」専用に改造された50系客車は、優等列車接続に使用するためクロスシートになっていたり、青函トンネル内での位置情報を伝えるモニタなどが装備してあった。多くの努力、犠牲の代償によって掘り抜かれた世界一の海底トンネルは、入ってしまえばただのトンネルで、特に感動することもないまま、青森到着。連絡船なら3時間50分、トンネルができて快速で2時間45分、当時の世間知らずだった自分は3/4程度の時間短縮のため、洞爺丸のことを踏まえても、なぜこんな国家的プロジェクトを敢行したのか疑問に思っていた。
後日、仕上がった酷い写真の数々を見て、あんなエチエチなパッケージのポンコツカメラに充てる予算をISO400の36枚撮りのフィルムに費やしていれば良かったと、猛省した。あれから30年以上経ち、最近は記録ではなく「記憶」に残すことの方が価値があるように思えるようになった。風景はもちろん、匂い、音に始まり、空腹感、満足感、疲労感、出会った人々、感情などの記憶。しかし記憶を引き出させる手段の一つが記録であることも感じている。なぜならこの記事を書いていて、引き出しから記憶が出てこなかった場面がいくつもあった。今後、死ぬ間際に後悔しないような、記録と記憶を自分のために残していきたい。