初18きっぷ、初四国の旅
1988.12/31
正月休み、今年は家族全員で両親の実家に帰省することになった。
「これは大変なことになった・・。」
当時、反抗期真っただ中だった自分は親、兄弟と電車に乗り、存命だった祖母祖父を始め、ド田舎に住む親戚一同でほのぼのした正月を過ごすのだけは、死んでも避けたい重大な事案だった。心の中で産んでくれた両親に中指を立て、「オレは絶対行かない。一人旅に出る」と言い残し、改造ママチャリを飛ばして近所のJRの駅に向かった。人生初の青春18きっぷ購入。当時、首都圏のほとんどの駅では、周遊券や18きっぷは常備券、つまりマルスではないあらかじめ印刷された切符が「常備」されていた。表紙と背表紙にホチキス止めされた5枚のピンクの切符。こいつを使えば全国のJR線が5日間乗りホーダイ・・・。素敵過ぎる・・・。でも今さらながら目的地を考えていなかった。とりあえず以前からその存在を知っていて、一度乗ってみたかった東京発の大垣夜行、375Mで西を目指すことにした。大晦日の前日だったか、先に出発する家族を、「死ね、クソババア」と心の中でつぶやきながら見送るわけでもなく自室に籠り、早速目的地の設定に頭を悩ませた。
昭和最後の大晦日、帰省やら18きっぷ利用などで375Mは大混雑するだろうと推測され、場所取りのため375M発車の5時間前に東京駅10番ホームに到着した。すでに各乗車位置には数名の乗客が待っている。一番空いていた先頭車両の乗車位置で待機。長い待ち時間が始まった。それから2時間ほど経過すると各乗車位置は長蛇の列になっており、そこへ近郊電車に乗降する一般の客が混ざりカオスとなる。さらに九州西日本各方面に設定されていた様々な寝台特急も出入りするので、先頭車の位置に並んでしまった自分は、ブルートレインのカニの発する猛烈なディーゼルの排気ガスに燻されながら時を過ごす。こういった混雑のため後年、大垣夜行は出発駅を線路容量に余裕がある品川に変更。さらにシーズン時には混雑解消のため375Mの運転時刻に近い9375M、通称「救済臨」も設定されるようになった。やがて品川方から待ちに待った375M、大垣夜行の165系が入線してきた。ドアが開くと殺気立った群衆は車内になだれ込み、一瞬で通路に立ち客も出現するような満員となった。自分は狙っていた先頭クハの運転席後ろデッキ側の2列席の窓際をゲット。前の人と膝を突き合わせる4名のボックスシートではない特等席を確保することができた。
荷物に場所取りをさせて東京駅探検。登場から3年経っていたがまだ211系は珍しかった。2階建てでない平屋のサロ211+210の時代。
東海道本線 東京 1988.12/31
満員の375Mは東京を出発。大晦日と言え通勤客もそれなりに乗っているようなので、次第に空いてくるのだろう。品川を過ぎるころに車内検札が始まった。0時を過ぎて最初の駅から青春18きっぷが有効になるので、日付をまたぐ横浜までは別に乗車券が必要になってくる。検札を終えるといよいよ年越しの瞬間。一部の18きっぱー達のカウントダウンとともに0時を迎え、まばらな拍手が車内に鳴り響く。昭和64年元旦。今となっては昭和最後の年越しの瞬間だった。列車は淡々と神奈川県内を西下し続け各駅で通勤客を下ろしていく。静岡県内に入るとほとんどが旅行者ばかりになった。自分はというと初めての375Mということもあって興奮していたのと、デッキに近く扉が開くたび寒く寝ることができなかった。途中隣に座っていた同じ18きっぷ旅行者という青年に声をかけられた。意気投合して互いの旅行の経験談をしゃべっているうち初めての長時間停車である沼津に到着。一緒にホームに出て外の空気を吸ったり、新年あけたばかりの夜行列車の佇むホームの雰囲気を楽しんだ。その後も静岡、浜松、豊橋などで長時間停車をくり返し、愛知県に入ったころようやく短い睡眠を取ることができた。
1989.1/1
やがて終点大垣到着。ほとんどの乗客は大阪方面へ乗り換える18きっぷ利用者であるので、接続の下り普通列車の座席を確保するため一斉にホームに降りて跨線橋を駆け上がり、隣ホームに乗り換える、「大垣ダッシュ」が展開される。自分はその座席争奪レースに敗れ、米原まで立ち席で過ごした。
巻き上げ不良で2重露光になってしまった。117系の新快速の俊足っぷりに感動したのを覚えている。
東海道本線 京都 1989.1/1
米原で新快速に乗り換え。寝不足もあって117系の俊足の走りと快適なクロスシートによって、上記京都で撮影した以外はほぼ爆睡していた。終着姫路からさらに西へ。12:27、岡山に到着した。さあいよいよ四国に渡る。昨年開通したばかりの瀬戸大橋とあって興奮を抑えきれなかった。高松行きのマリンライナー15号まで時間はないが、昨日出発してから何も口にしていなかったので大急ぎで構内の立ち食いソバで腹を満たした。
先頭車はパノラマのクロ212。体験してみたかったがグリーン車であるので当然乗れない。
山陽本線 岡山 1989.1/1
12:39岡山出発。宇野線の単線区間をのんびり進み、茶屋町からいよいよ本四備讃線に入る。線形も良くなり猛スピードでトンネルをいくつか通り過ぎると眩しい光が目に飛び込んできた。
青函トンネルと違って橋は飽きない。瀬戸内海に浮かぶ小島を次々と足掛かりに海を渡っていく。
瀬戸大橋を渡り終え、四国上陸。前方から岡山行きマリンライナーがやって来た。
瀬戸大橋を渡り終えマリンライナーを坂出で降り、人生初の四国第一歩を印す。マリンライナーを見送り、まだ地上駅だった坂出駅ホームでやって来る列車たちを撮影した。
四国専用形式として国鉄が最後に送り出した121系電車。登場時の赤帯からコーポレートカラーに変わっていた。
予讃本線 坂出 1989.1/1
四国の特急といえば国鉄時代からキハ181。後に四国特急の高速化に寄与する2000系の登場はこの2か月後だ。
予讃本線 坂出 1989.1/1
しばらくして高松方面からやって来たキハ40の土讃線阿波池田行きに乗車。元日ということもあって金比羅詣でに向かう乗客で立ち客が出るほどの盛況ぶりだった。のどかな田園地帯をしばらく走り、車窓に山地が近づいてきた琴平で多くの乗客が降り、1両に数人と閑散した列車は、四国山地越えのため山間部へ入る。長い分水嶺のトンネルを抜けて県境を越え、徳島県最初の駅、坪尻に近づいた。同じ四国島内の新改とともに有名なスイッチバックの秘境駅なので運転席後ろに移動し、構内を撮影。引き込み線に頭を突っ込み、バックで駅構内に入り扉が開くと、寒々とした深い谷底にひっそりとたたずむ無人駅だった。
峠を降りると坪尻駅ホームが見えてきた。
右に渡るのが阿波池田方の本線。普通列車は直進の引き上げ線へ向かう。
土讃線 坪尻 1989.1/1
確か特急の退避などは無かったと記憶しているが、自分が写真を撮っている間、車掌さんは待っていてくれたようだ。乗り込むとすぐに列車は出発。急勾配を降り、セミループでぐるっと180°盆地を回り込み、阿波池田に到着した。1時間ほど時間を潰し、キハ65の徳島線に乗車。乗客はまた数名程度。急行の格下げ車両だったようで転換クロスシートが備わっており、空いているのをいいことに、座席を90°窓際に向け、平行する吉野川を見ながら暮れなずむ車窓を愉しんだ。徳島18:44着。まだ今夜の目的地まで時間があるので、時間つぶしのため鳴門線を往復してみることにした。
まだ当時このようなローカル線用の軽快気動車は全国的にも珍しかった。四国用キハ32。
高徳線 徳島 1989.1/1
JR四国内のローカル運用の主力は、まだまだ国鉄型、そして国鉄色の宝庫であった。
鳴門線 鳴門 1989.1/1
鳴門駅での折り返し時間は1時間。無人駅、何もない駅前、本当に何もすることが無くなり寒さに震えながら時を過ごし、ようやく出発体制の整った徳島行きの扉が開き、暖かい車内へ入ることができた。しばらくキハ40に揺られ、途中、高徳線との分岐駅、池谷で下車。高松行きの特急「うずしお」を待った。特急に乗れない18きっぷでなぜ「うずしお」かというと、実は徳島線で徳島到着後、高松まで普通列車で行くには非常に接続が悪く、どこかで短区間、特急でつながなければならなかったことと、どちらにせよ鳴門まで往復しても同じ列車になることから、この小さい無人駅である池谷から1区間だけ特急に繋いでもらわなくてはならなかったのだ。やがてステンレスボディのキハ185が入線。車内に入ると新車の匂いが心地よい。この列車もガラガラだったので最前の展望席に着座。心の片隅で短区間だし「車掌さん検札に来なければいいなぁ〜」という願いが裏目に出たのか、すぐに検札にやってこられた。たった1区間、18きっぷでは乗車券も必要になるので合計¥600ほど支払い引田まで12分間乗車。この駅始発の普通列車に乗り換え、今夜の目的地高松に着いたのは22:40だった。
さて、今夜の宿となるのは当時残存していた四国島内夜行列車だ。高松を未明に出発。途中多度津で予讃線宇和島行き、土讃線窪川行きに分割され島内果てをめざすというロマンあふれる普通夜行列車だ。そのルーツはかつての予讃線ではキハ58による急行「宇和島」、土讃線は50系客車の221レ。いずれも宇高連絡船最終便に接続し、島内の県都を結んでいたのが、昨年頃より急行「宇和島」が格下げとなり、この普通列車9641Dとして毎日運転されることとなった。また同日に高松行きの客車列車もこの9641Dに併結する形で気動車化。さらに高知行きだったのが窪川まで延長されるという発展的解消で統合された。ところで列車番号からも分かるように「9」が付くことから臨時列車扱いであったものの毎日運転され、時刻表には「しばらくの間運転します」という注釈がついていたので、いずれ近いうちに廃止になると思われた。そして当時でも「普通」の夜行列車は珍しく、四国島内のこの列車の他に、今朝乗車した大垣夜行、新宿から中央東線を下る上諏訪夜行、紀勢本線の新宮夜行くらいだった。
そんな伝統のある列車、旅行シーズンの夜行列車ということもあってさぞ利用者は多いに違いないと少し覚悟して高松駅に降り立つと、とんでもない、並んでいる旅行者などは皆無で正月休みと相まって構内は閑散としていた。とその前に、今日一日岡山で食べた立ち食いソバしか食事をしていなかったので、一旦改札を出て駅前の小さなコンビニで、一番安いコロッケ弁当とお茶を購入。やがてやって来たキハ58×4両の宇和島行き編成に乗り込むと、乗客は自分含めたった5人ほどだった。0:10 高松発車。すぐに弁当を食べ始めた。しかし食べ始めてすぐに、18きっぷ旅行者と思われる一人の男性がデッキの扉を開けて入って来た。するとガラガラで空席は多数あるにも関わらず、わざわざ自分の隣に腰を下ろしてきた。「いやぁ〜空いててよかったよかった!」などと言いながら、彼も買い置きしていただろうコンビニ弁当を広げ食べ始めた。しかしながら彼、自重0.15トン以上ありそうな超巨漢で、座るなり座席が狭かったのか、ひじ掛けを上に上げ、こちらの領域にその肉弾を侵略してきた。「フヒ〜フヒ〜」と周囲の酸素を奪いながら同時に猛烈な湿度も提供してきた。すると、「どちらまで行かれますの?」と彼。どうやら旅の道連れが欲しく私の隣にやってきただけだったようだ。互いにコンビニ弁当を食べながら少し話しをしていたが、あまりに窮屈な上、不快だったため、自分は「すいません、自分席を変えますのでどうぞ自由に使ってください」と露骨に拒否を伝え席を移動した。
1989.1/2
7:10、終着宇和島着。昨日の巨漢の彼はどこで降りたか車内にはいない様子だったが、途中で乗って来た多くの乗客とともにホームに降りる。今日はよく晴れている。すぐに接続の予土線4834Dの乗車。7:28出発。国鉄末期に登場した新型気動車キハ54はロングシート車で、少し残念に思いながらも、列車は坦々と四万十川沿いを窪川に向かって走ってゆく。しかし車窓を見ればその風景の美しいことと言ったらなかった。碧い川面に沈下橋、なだらかな山々の稜線。興ざめしていたロングシートも忘れただ移り行く車窓を愉しんだ。そして終着窪川に近づいてきた頃、この路線のハイライトでもある風景を撮っておこうと、川奥信号所を過ぎたあたりでカメラを用意した。
眼下に見える旧中村線のループ。幼き日の愚生が写りこんでいる。
予土線 川奥(信)〜若井 1989.1/2
宇和島から乗って来たキハ54。隣ホームには高松行き急行「土佐」の国鉄色キハ65が見える。
土讃線 窪川 1989.1/2
さて窪川からは旧中村線こと土佐くろしお鉄道に乗車する。当然18きっぷは使用できないので当時終着だった中村までの切符を購入。この旅行も例に漏れず断食を節約の手段とするほどだったため痛い出費だ。先ほど通って来た線路を1駅少し戻り、川奥信号所から今度は右へ分岐。長いループトンネルに入って地上に出た。どこまでも晴れ渡る快晴の空の下、真っ青な太平洋を見ながら50分。終着中村に到着した。ここで是非見ておきたいものがあった。当時まだ開通していなかった中村〜宿毛方面への未成線区間がどうなっているのかである。当時子供心に全国の建設を放棄された鉄道未成線に大いに興味を持っていた。すでに昭和50年代半ばに建設が中止されたものの、まだいくつかは国土地理院の1/25000の地図に鉄道の建設中を示す白いハシゴ線として残っており、それにロマンを感じていた。確か1枚200円くらいで市内の大きな書店で販売されていて、一部は少ない小遣いをはたいて購入、他は立ち「地図」読みをして好奇心を満たしていた。そんな本物を感じられるということもあって、人生初の未成線探訪が始まった。と言っても帰りの列車までの時間も無く、移動も徒歩でしかないため、線路終端を目指して数百mほど歩き、線路の敷かれていない道床を見たのち、満足して駅に引き返した。
手前の直線状の空き地が現在の宿毛行きの線路。
土佐くろしお鉄道 中村線 中村 1989.1/2
ご存知のようにこれから8年後、建設が再開され線路は悲願の宿毛まで到達。このように1990年代から3セク移行によって建設再開される路線が各地に出現。当時想像もしなかったことが実現していくのであった。さて、中村駅へ戻り列車に乗り、窪川で高知行きの普通列車に乗り込む。正月2日目ということもあって帰省ラッシュが始まりつつあり、車内は立客がでるほどの盛況ぶり。窓際は押さえられなかったが、転換クロスのキハ65の通路側をゲット。数少ない土讃線の海沿い車窓スポットを隣の人を挟みつつ感動。2時間ちょっと揺られ高知で下車。接続の琴平行き260Dはタラコ原色のキハ20を先頭にした編成だった。すぐさまキハ20ならではの運転席後ろの前展席を確保。少し夕方の気配に包まれ始めた高知駅を15:43出発。しばらくして土佐山田を過ぎるといよいよ四国山地越えの区間に入る。そこからの1時間半は、薄暗いながらも風光明媚な山間を縫うようにして走る絶景に目が釘付けになるほど印象に焼き付いた。本当に楽しかった時間だったが、すっかり日も落ちたころ途中の阿波池田で下車した。
右のキハ20に乗って阿波池田に到着。隣りのホームでは下り50系客車が待機していた。
土讃線 阿波池田 1989.1/2
現役のSGが稼働している客車を初めて見てまた感動。
土讃線 阿波池田 1989.1/2
長時間停車なのか。50系とはいえ夜汽車の雰囲気そのもの。これに乗って夜の四国山地横断も楽しそうだ。
土讃線 阿波池田 1989.1/2
幾枚か撮影したのち、昨日も乗車した徳島線に乗り換えた。暗闇の中吉野川沿いを走り続け、21:05徳島到着。そして今夜の寝床に移動する。
今夜の宿は現在でも運行されている南海フェリーの夜行便。当時は小松島港から出ていたので牟岐線に少し乗って南小松島で下車。かつては港のある小松島港まで本州連絡を目的とされた日本で一番短い国鉄路線である小松島線があったが、1984年に廃止。1kmちょっとの路線であったので徒歩でもあっという間に港に到着することができた。まだ出港まで時間があったためか、全く暖房が効いておらず凍える寒さの中、誰もいないフェリー待合室でひたすら時間を潰し、やがて和歌山からやって来てくれたフェリーに乗り込み1:30、小松島港を出港した。乗船したフェリーはまだ就航してからあまり経ってないらしく、客室設備が真新しく得した気分だ。またトラックなどの貨物はぼちぼちあるものの、一般客室の乗客は自分ただ一人だけだったのもとても嬉しい。そして芯まで冷え込んだ体に効きすぎるくらいの暖房も幸せだ。ほとんど一日中興奮して鉄道旅を満喫していたせいもあり、升席に横になると速攻で気を失ってしまった。
1989.1/3
徐々に深い眠りに陥る寸前の2時間後。分かってはいたけど聞きたくなかった放送に起こされた。間もなく和歌山港到着のアナウンス。航海時間は中途半端な2時間半程度であったので時刻はまだ4時前。小松島でもそうであったように和歌山港の待合室も一番列車を数時間待てるほど快適な空調になっていないのだろう。着岸したのち暖かだった船を降り、南海の和歌山港駅に繋がる長いボーディングブリッジを渡り待合所を覗くと、なんと夜間は施錠。ついにこの寒空に放り出されてしまった。いろいろ考えた末、寒さに震えじっとしているよりは、JRの和歌山駅まで歩いたほうが暖かいだろうとの決断を下し、真夜中の市街地を歩き始めた。当然地図も持っておらず、当て勘で東に向かって歩を進める。目的地和歌山駅は県都であるので、当然ここよりかは栄えている場所であろうと、より街明かりが明かるいほうへひたすら進む。30分以上歩き、ようやく都会の様相を見せてきた街並みに安堵し、駅ビルを備える大きな駅に到着した。和歌山駅だろう。阪和線なら一番列車も早いはずだしそろそろ動く時間ではなかろうと、駅に近づくと、そこは和歌山「市」駅。時刻表を改めて確認し、和歌山市街の鉄道路線を初めて知った。「ここは和歌山駅ではない!」 立ち止まるともうどうにも寒くていられないので、この駅発のJRの一番列車の時刻表を見ると、なんと6時過ぎとまだまだ時間があり、それよりか始発が早い南海電車に乗ろうにも所持金が無さすぎる。すぐに当初の目的地でもある和歌山駅を目指して進むこととした。結局1時間半ほど歩き続け、和歌山駅到着。ようやく暖かい車内に入れると思いきや、なぜか全く暖房の効いていない113系が待っていて、天王寺まで1時間ほど、歩いていた時よりもさらに寒い思いをしながら電車に揺られた。
今思えば地図を見ると港から和歌山駅まで、和歌山「市」駅を通らずにショートカットすれば1/3ほど短縮できるし、道が分からなかったらコンビニなどで地図を立ち読みすれば最前の方法はあったろうに・・・と思うのだが、30年以上経った今でも記憶に残る想い出となっている。
さて天王寺から首都圏までの帰還路はひたすら東海道線だ。のちに何度も経験することになる、18きっぷでの日中の大静岡横断。静岡県の広大さを骨身にしみて理解できるという体験を多くの方もされていると思う。そんな訳で横浜に到着したのは夕方ごろ。家族はまだ帰省から戻ってきておらず、家にたった一人夜を明かす、こんなことは滅多にないことなので、当時考えられる様々な悪事をし、昭和最後の正月は今も深く記憶に残っている。