惜別 青函連絡船 最終日
1988.3/12
自身、初めてテツ旅行したのは前年の8月。国鉄が民営化された年の最初の夏に訪問した北海道ワイド周遊券乗りまくりツアーだったことは別項にUPスミである。ワイド周遊券は航路含む往復乗車券もセットだったので、当然のように、一手段として青函連絡船で生涯初の「渡道」をしたのだった。しかし実際乗船してみると、初めて訪問する北の大地への高揚感も相まって、郷愁漂う北の海を往く航海、鉄道と船舶が連携し、明治の頃より連綿と大動脈を守っていること、人はもちろん貨物まで北海道の開発に大きく貢献してきたこと。なんだかそういう意義というか連絡船独特の哀愁を子供心に感じ、旅行後にはすっかり青函連絡船の虜になってしまっていた。
二学期になると近所の図書館で青函連絡船にまつわる写真集や文献などを読み漁り、図工の時間には十和田丸の彫刻や、八甲田丸の版画を提出していたくらい、寝ても覚めても青函連絡船に想いを募らせるばかりだった。来春には青函トンネル開通でこの航路は廃止されてしまう。そしてようやくやって来た冬休み、18きっぷを使って存分に連絡船を楽しもうとしていた矢先、学業不振に陥ってしまったため、厳しかった親父の許可が下りず、泣く泣く諦めざるを得なかった。三学期も始まると、テレビでは毎日のように青函連絡船廃止フィーバーが伝えられ、耐えられず目を背ける毎日でもあった。しかし想いは募るばかり。こうなったら家出してまでも行ってやろうと連絡船廃止を前々日に控えた日、親父の許可が下りた。
青函トンネルが開業したのは1988年3月13日(日)、青函連絡船最終運航も同日。つまり3月13日は連絡船とトンネルが同時に運用されていた、最初で最後の日でもあった。前日3月12日土曜日。当時の学校や企業の多くは週休2日が導入される以前であり、いわゆる土曜は「半ドン」の日でもあったので、土曜の授業が午前中に終わると急いで自宅に戻り、用意していた荷物を持って上野駅に急いだ。当時始発だった上野駅の長いエスカレーターを降ると目的の列車の乗車位置には長蛇の行列ができており、着座できそうもない。やがてやって来た列車はまだ珍しかった200系200番台。ドアが開いて乗車するも瞬く間に満席になってしまい、車内を数両移動してようやく通路側の席を確保できた。15:40 やまびこ11号上野を出発。このやまびこ11号は仙台〜盛岡無停車の速達タイプ。通常のやまびこより30分以上所要時間が短く、自宅から上野駅までの時間の無さを埋めようと選んだ列車だった。大宮を出て高速走行が始まるころ、落ち着いて車内を見渡してみると、どうも連絡船乗船を目的にしているような人たちがチラホラ見受けられた。通路を挟んで反対側の2人組の青年もそのようだが、なにやら時刻表を見ながら困っている様子。会話を盗み聞きしていると、駅で買ったばかりの時刻表が3月号で、本日はダイヤ改正前のため今日の今後の列車の時刻が分からなかったようだ。自分の時刻表は2月号だったので、声をかけ貸してあげると、そのやり取りに聞き耳を立てていた周囲の多くの旅行者に「私も困ってたんです!貸してください!!」と何人にも声を掛けられ、私の時刻表は皆の貴重な情報源となった。さて仙台を出て完全に日没し真っ暗闇のみちのくを突っ走る新幹線。時折車販のワゴンが行き来しているが、今回の旅費で、18きっぷ以上の出費をしてしまったため完全な金欠で、腹は減っているものの、今回も断食をしなければいけないので旅行中食事は辛抱することにした。
当初冬休みに青函連絡船を訪問しようとしていた時は、長期休みということもあり全行程を18きっぷを使おうとしていたのだが、今回はたった1.5日で函館までを往復しなければならず18きっぷでは実現困難。なので往復切符を買うより安い「函館・大沼ミニ周遊券」を選んだ。フリー区間内までの往復のルールはワイド周遊券と一緒のため、18きっぷとは違い特急料金を払えば新幹線にも乗れたのだ。18:25 盛岡到着。東北新幹線はここまでのため、連絡する在来特急「はつかり21号」へ急いで乗り換えなければいけない。しかし先着のやまびこの乗客で車内はすでに満員で、仕方なく青森までデッキで過ごすことにした。二戸を過ぎると車内検札が始まり、ダメ元で車掌に新幹線の特急券を見せると乗り継ぎ割引にしてくれた。¥1000ちょっと得をしホクホクしていると、目の前のトイレからベロンベロンに酔っぱらったオッサンが出てきて、見つけた私に声をかけた。「どこから来たんだ?」「どこへ行くんだ?」に始まりいろいろ聞いてくる。酔っ払いなので刺激しないように適当にあしらっていると、私の腕をグイッとつかんで客室内へ引っ張り、自分の隣の席に強制的に座らせた。指定席だったので不安に思っていたがまだ後客は来ていないようで、普段なら嬉しいA席側に座らされたため完全にブロックされ、終始泥酔オッサンの話に付き合った。八戸あたりで、この席の持ち主と思われる気弱そうな青年が我々の周囲でウロウロしていたが、オッサンは大声でその青年を追い払い、その先は謎の言語を大声でわめき散らし始め、野辺地を過ぎるとついにリバースモードに突入し危険な状態になってきた。ようやく青森に到着。オッサンは到着寸前にデッキでミニゲ●をやってしまったものの、どうもこの後、気に入ってしまった子供の私と呑みに行くつもりでいたらしく、ガッツリと腕を組まれたまま一緒にホームに降りた。そして自分はその瞬間振り切り猛ダッシュ。当然相手は酩酊の大虎なので余裕で逃げ切り追尾されることはなかった。
青森駅では、各方面から到着した乗客たちは、改札を出る者は南へ、連絡船に乗るものは北へとホームを移動する。連絡船乗り換えの多くは、船内の場所確保のため長いホームを小走りで連絡通路へ急ぐ。すでにこの時代、北海道への旅行者の97%は空路を利用しており、鉄道〜連絡船を利用する渡道者はごくわずかで、普段は空気輸送であったというが、盆暮れ正月、また18きっぷシーズンは満員であり、まして今日は廃止まで翌日と迫った時期だったから連絡船乗り継ぎ客は大勢いた。次の函館行きは0:05発の臨時便でまだ3時間以上あったが、多くの乗り継ぎ客は先を争うように連絡口を目指していた。この0:05発の臨時便は繁忙期に運航されていた船で、使用される船舶は元貨物船の改造である「石狩丸型」であり、客席はオールモノクラスの上、簡易な売店くらいしか設備はなく、船旅をするという風情に欠け、自分としてはこの石狩丸型だけはどうしても避けたかったため、この臨時便の直後に出港する定期の夜行便に乗るつもりでいた。どうせ混雑することだろうし、船内では寝場所を確保せず写真を撮りまくろうと考えていたので、その先を急ぐ集団には合わせずにゆっくり連絡船待合所に続く跨線橋を渡った。定期便は青函連絡船の顔ともいうべき「津軽丸型」で運行されていた。
津軽丸型・・・1964年に登場した津軽丸に準じた客貨船。この頃には航路廃止を待たずして「津軽丸」と「松前丸」の2隻は引退スミで、残された計5隻の布陣だった。スペックはほぼすべて同一だが、最後に登場した十和田丸だけ横揺れ防止のフィンスタビライザーが装備されていた。
・八甲田丸(シンボルカラーは黄色)
・摩周丸(青)
・羊蹄丸(紅)
・十和田丸(橙)
・大雪丸(緑)
石狩丸型・・・老朽化で一早く引退した津軽丸と松前丸の補完用として、1982年に貨物専用船から改造され、客室設備を追加した客貨船。主に繁忙期の臨時便に就いたり、貨物専用便で使われていた。すべて普通船室扱いで、食堂やグリーン船室などなく、旅人には人気がなかった。
・石狩丸(朱)
・桧山丸(朱)
空知丸・・・唯一残った貨物専用船。客席がない分、薄っぺらいサイドビューだった。
というわけで0:30発の定期便で夜行連絡船を楽しもうとしていたが、混雑する待合所に入ると、放送で21時過ぎに時刻表にも載っていない臨時便、というより突発臨が出るとのこと。どうせ石狩丸型だろうとすでに着岸している船体を見ると、昨年夏に乗った八甲田丸が出港を待っていた。突発臨なので乗客も少ないようだし、石狩丸型でないことが分かったので、この21:30発の八甲田丸に乗船することを決め、他の少ない乗客とともに船内へ。とりあえず升席の一角をキープ後、出港の様子を見るため外のデッキにでた。連絡船特有の野太い汽笛を鳴らして厳かに真っ暗な海峡へと進み始めた。しばらく遠ざかる青森の街の夜景を見届け船内に戻り探索を開始した。出港直後は気が付かなかったが、本日は波が少し高いようで、海峡に近づけば近づくほど大いに時化てきた。立っていた床が急にスコーンと抜け落ち、しばらくすると下から突き上げられるような感覚。自分は乗り物酔いには全く無縁の体質なのだが、誰かが床にぶちまけてしまったゲル状の酸性の物体は、船の揺れに合わせて床を右に左へと移動を繰り返していた。
1階前方左舷にある普通船室のイス席。リクライニングしない昔の国鉄特急と同タイプか? 空いてれば寝台もOK。
2階はグリーン船室。「CAR」ではなくて「CABIN」が船の証。ロゴは列車と同じ。
2階後方左舷にある升席のグリーン自由席。定員124名。料金¥1100。少し毛足の長いジュウタンと蛍光灯カバーが違う程度。空いているのが売りだったようだ。
2階後方右舷のイス仕様のグリーン自由席。定員76名。ひじ掛けカバー、読書灯、リクライニングが追加装備。こちらも¥1100。
2階前方にあるグリーン指定席。定員96名。自由席に加え、独立シート、高い背もたれ、通路にジュウタンがさらに追加。料金¥1600。
2階最前方、ブリッジの真下にある最上位クラス、寝台室。定員20名。なぜか室内を撮影していなかったのが悔やまれる。上段下段ともに料金¥2400。
シャワー室もあった。1回¥200で7分使用とのこと。
寝台室付近にあった「飾り毛布」解説の図
実はこれらの船内写真だが、函館到着直前に慌てて撮影したものである。というのは、出港後すぐに船内をうろつき、様々な船内設備を記録に残しておいたのだが、撮り進めていくうち、昨日、クラスメイトのS君からもらったフィルムの、36枚のカウントを過ぎても無限にシャッターが切れるということから、もしかしたら装填をミスったか、巻芯とフィルムが切断しているどちらかではないかと予測し血の気が引いてくるのが分かった。すぐに船内のトイレ個室に入り、着ていたジャンパーの中で暗室を作り、手探りでカメラの裏ブタを開けてみると、カメラ側にはフィルムが巻き取られており、フィルムの切断が判明。同時に今まで撮影した画像は露光済ということになるので、どうにかしてカメラ側の生フィルムをパトローネに戻そうと四苦八苦しているうち、誤ってそのフィルムを床に落としてしまい、撮影済の画像は消えてしまった。こんなことがあったので、予備のフィルムに入替え、慌てて入港直前に撮影したものだ。
やがて八甲田丸は函館港内に入ると減速し、函館山を回り込むように接岸の態勢になってきた。駅ホームの明かりが近づき岸壁衝突寸前に右に目一杯旋回し停船した。あとは接岸であるが、最近のほとんどのフェリーの場合、船体前後にあるバウスラスターと舵を巧みに使いながら接岸するのだが、青函連絡船のバウスラスターは前側しか装備しておらず、後方を小さなタグボートにグイグイ押されながら、1:20無事函館港に着岸した。
荒れる津軽海峡。こんな日はデッキにいると時折波しぶきを浴びることになる。

道内時刻表より。連絡船グリーン船室案内。1階の食堂の他に喫茶室もあったようだ。
降りた人はまばらだったが、自分は足早に改札を出て、すぐに氷点下の市街を歩き出した。何せ先ほど入れ替えた予備フィルムは24枚撮りで、すでに撮り切ってしまい、これから帰りの様子も記録しなければならないのでフィルムを調達する必要があったのだ。深夜とは言え何かしら記録に残したいものが多く、朝キオスクが開くも待っていられず、とりあえず24時間営業のコンビニを探すことにした。当ても無くしばらく七重浜方面へ歩いていたが、街の明かりはだんだんと疎らになっていき不安が募る。さらに進み完全に真っ暗な人気のない郊外の国道で引き返す決断をした。すると通り過ぎたパトカーが慌ててUターンして目の前に停車し警官2人が降りてきた。こんな真夜中に郊外の国道でリュックを背負った少年に声をかけない訳にはいかない。経緯と目的を話すと、24時間営業のコンビニを教えてくれ、言われた通りの道をたどるとローソンがあった。ここで目的のISO400の36枚撮りを購入。駅へと戻った。するとちょうど臨時の夜行便が到着するころであった。寒風吹く送迎デッキで待っていると、やって来たのは桧山丸だった。
各船にはシンボルマークがあった。桧山丸はカモメ。
改造船の桧山丸と石狩丸は船体の後方に客室をポン付けしたような構造であった。
この30分後。定期便である十和田丸がやって来た。津軽丸型では最も若い昭和41年生まれ。暗闇では映えないがオレンジの塗分けがオシャレな船体だった。第一バースには桧山丸が到着したばかりなので、十和田丸は第二バースに着岸。夜行2便を迎える頃になると、昨日朝から一睡もしていなかったので、待合所で少し仮眠をとることにした。
4:20着、第1便の十和田丸。基本青函連絡船は到着後55分で給油、資材補給はもちろん、清掃、積載貨車の積み下ろしをこなし折り返していく。
貨車航送を狙っていたが、最終日だからなのか空荷だった。
1988.3/12
眠りに堕ちたのかそうでないのか、目を覚ますと外は完全に明るくなっており、駅はトンネル開通と連絡船廃止の日を迎え、とても慌ただしい様子になっていた。ベンチでゴロ寝していた自分の目の前では、朝のワイドショーの生中継が行われている。すぐに今日の行動開始である。昨日出発してから何も口にしていなかったので、待合所の立ち食いソバで腹ごしらえ。間もなく出発する青森行き快速「海峡」を撮影するためホームに降りた。
出発を待つ津軽海峡線用50系客車で構成された快速「海峡」
機関車前方にはファンが大挙していたので、腕を伸ばして撮影した。・・・と思う。
スラントノーズのキハ183特急「北斗」も待機中。
さていよいよ、函館を離れる時がやって来た。明日月曜の授業に間に合うためには、10:10出港の6便に乗船する必要がある。何日か前、連絡船廃止フィーバーを伝えるニュースでは、最終便乗船のために1週間以上前から徹夜で何百人と列を作って待っていると報じていた。自分の乗船する便は最終便ではないものの、かなりの混雑を予想していたので、最悪乗船できなかった場合、開通したばかりの海峡線で帰るエスケープ案も考えていた。しかし、現地に滞在していると、その報道は全くの虚偽であり、確かに列はできていたものの、数十人といったところで、出で立ちから何泊もここに野宿しているようには全く見えず、マスコミの演出が垣間見えた。送迎デッキで6便の折り返しを待っていると、やって来たのは青のシンボルカラーの摩周丸だった。
摩周丸が接岸中。今日から貨物列車はトンネル経由のため、航走もないことから喫水線がいつもより水面から出ている。
摩周丸に乗り込むと満員といかないまでもかなりの混雑。普通升席をなんとか確保して、デッキに出て出港を見届けることにした。過去、見送りの紙テープが絡んで乗客が転落する事故が発生して以来、禁止となっていたが、ここへ来て復活。さらに通常では放送による出港の際の銅鑼も実演がされるとあって岸壁側左舷は船が傾いてしまうのではないかと思うほどの大勢の人々が出港の時を待っていた。
大盛り上がりの中、摩周丸は10:10、青森へ向けて出港した。昨日の時化がウソのようなほどの穏やかな海上と青い空。函館港外に向けて進むと、青函航路を支えてきた僚友たちの姿を見ることができた。
函館山とも今日でお別れ。名残惜しく立ち去れない乗船客が何人か残っていた。
昨年の夏に乗船した、貨物船改造の石狩丸。もう役目を終えて佇んでいるだけのようだった。
唯一貨物専用船として残った空知丸。
船内は散策するには混雑していたが、どうしても経験してみたいことがあった。食堂で海峡ラーメンが喰いたかった。今まで乗った連絡船は全て夜行便だったため、食堂は営業しておらず、最初にして最後の日中の航海なので、早速レストランへと向かった。どんな味だったか全く覚えていないが、たまにしか食べない食堂のラーメンはたぶん美味かったんだと思う。ホタテが乗っている味噌味の海峡ラーメンは美味いかどうかは別として有名だった。
ピンボケの海峡ラーメン。混雑していたので相席だった。

道内時刻表には連絡船内のお品書きも掲載されていた。ラーメン、カレーが¥500とは当時でも良心的な設定だったと思える。
しばらく経ち、海峡中央部へと進んでいくと、船内放送で羊蹄丸とすれ違うとの案内があったので早速デッキに向かった。逆光だったが羊蹄丸を撮影。この羊蹄丸が函館に到着後、最終便となって青森に向かう運用になることを知ったのは、後になってからであった。そして14:05、青森港着。すぐに特急「はつかり」〜新幹線で当日中に帰郷したかったのだが、特急券の出費を抑えるために、急行「津軽」で帰ることにした。津軽は夜行列車だが青森発が15:54と早く、奥羽本線の途中の都市を経由しながら乗客を拾い、上野には翌朝5:54に到着するため、月曜の1時間目の授業にも間に合うことができるためこれを選んだ。道中の景色や雰囲気は覚えていないが、早朝上野に到着した時、一気に現実に引き戻される感じが切なく、余韻を残す間もなく自宅に帰り、気怠い感じで登校したのは鮮明に記憶に残っている。
そしてこの年、1988年夏、船籍がまだあった羊蹄丸と十和田丸の2隻で、期間限定の青函連絡船復活運航を行った。1日2往復だったと思うが、大盛況だったようで、当然自分も乗りに行きたいという欲求で気が狂わんばかりだったが、昨年からの学業不振は一向に改善されず、またしても親の許可が降りず、垂涎するまま夏が終わり、復活運航も終わってしまっていた。
津軽海峡中央で行違う羊蹄丸。逞しくも優美な、まるで女王のような存在だ。