謎の未現像フィルムを現像してみた!
今から10数年前のとある日、自分の部屋の掃除をしていた。どういう訳かその日は気合が入りまくり、雑多な物品も処分してみようという気持ちになった。誰もがこういう経験をお持ちだろうが、昔の整理をしていると、ふと引っ張り出したものを懐かしんでいるうちに当時の記憶が甦り、なかなか作業がはかどらないという結果になることがある。この時もそうだった。幼き頃に書き留めておいた旅の記録や、使用済の切符なんかを見ているうち何時間も経ってしまっていた。すると引出しの奥から、フイルムのパトローネが出てきた。フジフィルムのASA100の36枚撮り。全く記憶にないのだが、何年もここに眠っていたようだ。使用済みかどうか分からないが、一応ベロが引っ込んでいたので撮影済みなのかも知れない。いつの頃のモノだろうか・・・? 高校生になってバイトを始めてから中学生のソレよりかは金回りが良くなり、今でいうISO400の36枚撮りを使っていた。それまでは少ない小遣いの中でのやりくりだったので、一番安かった感度100のネガフィルムを使っていた。だとすれば1980年代のブツか、緊急で業務的に購入したフィルムなのか? もう現像してみるしかない!! まるでタイムカプセルを開くかの如く、翌日、当時勤めていた写真店の業務用現像機を使って明らかにすることとした。
あくる日、職場にて。ピッカーでベロを引っ張り出して現像機にセットし、スイッチヲン! さあどんな映像が焼き付いているのか。それとも未使用だったのか・・・。
10分ほどして現像されたばかりのフィルムが出てきた。見るとどれも映像が浮かび上がっているように見えるが、それにしても出現した各コマはどれも通常より濃い色、つまり露出オーバーの状態に見受けられる。少なくとも10年以上放置された結果だろう。早速スキャナーに取り込んでデジタル化してみるとフィルムの経年劣化なのか色合いが不自然な画像が浮かび上がってきた。以下、映像化できたすべてのコマを掲載する。
いきなりEF66。後追い?単機? 一体どこで撮ったのだろう・・?
場所判明。戸塚〜大船間で下り東海道線車内から並走する66単機を撮影したのだろう。
上記2つは同じEF6616と判読できるので同日同時刻の撮影と思われる。東海道線下りに乗ってどこに行ったのか? 全く記憶になかったのだが、次の写真で答えが見つかった途端、鮮明に当日の目的地を思い出したのだった。
電化される前の相模線寒川駅。そうだ!! たびたび想い出写真館に登場してくれる友人T君と、西寒川支線の跡地巡りに行ったんだっけ! 西寒川支線が現役の頃は知らないが、廃止からしばらく経て、同じ県内に一日4往復の超閑散線があることを知って次第に興味を持ち、T君を誘って遺構を探しに行ったことを思いだした。駅名票から・・・
北方を向いて撮影。恐らく自分たちが茅ヶ崎から乗ってきた列車の出発を後追いしたのだろう。どんどん記憶が甦ってくる。昼過ぎの人気の少ない駅を出て、支線の分岐点まで行ってみることにしたのだった。
西寒川支線は、相模線寒川駅から分岐し、1駅進んだ西寒川駅まで1.5kmを結んでいた相模線の「支線」である。元は相模川の川砂利採取用として建設された貨物線だったが戦後旅客営業を開始。その後1984年に廃止となるが、最末期は1日4往復という超過疎運転となっており、廃止後、物心ついた自分はこの路線の特異性から非常に興味があった。当時の時刻表を見てみよう。

ニョロッと伸びた怪しい盲腸線。西寒川支線は通称で、正式には相模線。和田岬線みたいなものだ。

非電化時代の相模線。今とは比べ物にならないくらいの本数の少なさ。その中で1日4回、西寒川へ向かう列車が設定されていた。
(いずれも交通公社時刻表1983年1月号)
いずれも北を向いて撮影。ポイント小屋や、本線から左に分岐していく跡がはっきりと見て取れた。明瞭にかつてそこに軌道があった痕跡を見つけた。終点の西寒川までどんな跡地が待っているのだろう。心はずませながら先を急ぐと、予期せぬ展開が待ちうけていた。
裏寂れた廃線跡、痕跡を辿りながらの散策を期待していたのだが、すぐに整備された遊歩道になっていた。廃止当時のままのものか、それとも敷設直されたのか、線路と枕木の軌道が、現役当時のまま緩やかな弧を描いて西寒川を目指していた。T君とくだらない話をしながらテクテクその線路の上を歩いていると、そのモニュメント的なものは数百mほどで途切れ、ようやく廃線らしい一条の砂利道になってきた。もう支線全体の半分以上進んでいると追われるが、ここにきて急に現役時代の遺構が目につくようになってきた。
奥が西寒川方。ギリギリまで住宅が建て込んでおり、かすめるように一日数往復の気動車が行き交っていたのだろう。
旧「工部省」をあらわす「エ」標識は、国鉄廃線跡には必須のアイテムだ。
踏切警報器も残っていた。右のダイドー自販機が懐かしい。
ついに草むらに埋もれた線路発見。
人生初めての廃線探訪で数々の遺構を発見しているうち、やがて終点が近づいてきた。西寒川駅跡だ。駅跡といってもただの空地がポツンとあるだけで、唯一そこに駅があったと伝えるモニュメントだけが、旧駅の場所を示していた。と同時に相模海軍工廠跡と併記されているが、工廠とは海軍の軍需工場とのことである。工場はどこにあったのだろう。というより西寒川駅の構内が想像つかない。鉄道駅の構内となればたとえ小規模でも長細い敷地になるものであり、ここの広場は小規模な学校のグラウンドよりも遥かに小さい塊状のような空地で、どう見ても鉄道の駅、それも終着駅の風情がまるで感じられなかった。
終端部より全景、歩いてきた寒川方を振り返る。(カーソルオンで2019年の写真になります)
これを撮影した当時はいろいろと空想を交えて現役当時の駅構内の様子など想像をめぐらしたものだが、最近になって現役時代の映像画像を、簡単にネットやyoutubeなどで鑑賞できるようになり、当時の雰囲気がようやく掴めてきた。恐らくホーム長はせいぜい2両分。駅舎や側線などは無く、棒線に簡易なホームがあっただけのようだと知ることができた。

今度は寒川方より終端部を望む。さらに昔は相模川まで伸び、砂利を採取していたとのこと。(カーソルオンで2019年の写真になります)
昭和40年代には、道路を渡ったこの先の日東化工の工場へ専用線も伸びていたともされるが痕跡は見つけられなかった。晩年このモニュメントあたりで線路は途切れていたのだろう。ところでこの写真左に写る、捨て看板にご注目いただきたい。この写真の撮影時期が判読できそうだ。
気軽にくつろげる割烹居酒屋「三十三間堂」が近日オープンするらしい。その開店日、7月15日(金)にご注目。OKグーグル、さぁ教えて! 「19○○年7月15日は何曜日?」・・・といくつかやって、出た答えは1988年とのこと。1988年といえばソウルオリンピック開催、青函トンネル、瀬戸大橋が開通した昭和最末期。このフィルムは1988年の撮影らしい。引出から発見して現像したのが2003年。つまり15年の時を経て映像として浮かび上がってきたことになる。このあとどう帰ったか全く覚えていない。成果に満足したのかそうでなかったのか、この居酒屋開店の看板のコマでこの日の画像はこと切れていた。
それでは次のコマは・・・?
オォー!! HSST! かつて日本航空が開発を先導し、国鉄の磁気反発式と対抗して開発された吸引式によるリニアモーターカーだ。地方博覧会ブーム真っ只中の1989年に開催された「横浜博覧会」会場内での撮影と思われる。1989年の横浜市立の小中学校生徒はすべて横浜博に招待され、全学年数百人規模で訪問したことは覚えているが、幼き頃の記憶はすでに曖昧で、どこで何のパビリオンを見たのか定かではないが、このHSSTの写真ともう一つ同時期の画像が映し出されていた。
横浜博覧会会場から撮影したと思われる、横浜ベイブリッジ。しかしよく見ると橋上にクレーンの姿が写っており、開通前の工事中の様子であると思われる。横浜ベイブリッジの開通は1989年9月。横浜博は同年10月までだったので、恐らく夏休み直前の7月だったと思われる。
そして次の写真は・・・
江ノ電江ノ島駅ですね。多分、T君と一緒に、フリー切符を使って江ノ電を撮影に来たと思われる。この江ノ島駅、構内の様子は現在でもほとんど変わっていないが、サンラインカラーの1000形、そしてこの時ですでに退役から10年近く経っている100形、タンコロが目を引く。タンコロはこの数年後、極楽寺にある検車区で専用の保管庫を与えられ、現在でも大切に動態保存として扱われている。
江ノ島駅に進入する鎌倉行き旧500形。2006年に登場した後継車、新500形はこの丸みを帯びたデザインを汲んでおり、独特のかわいらしいフォルムが特徴の車両だ。次の写真からこの500形は見送り、撮影していた側のホームで藤沢行きに乗ったようだ。
駅ビル2階にある藤沢駅。2020年現在も末裔が現役の300形だが、こちらは前面張り上げ屋根ではない旧型タイプ。車体幅も狭く路面電車の面影を残している。
元東急80形の600形。当時でも600形が運用に入ることは珍しかったと記憶しているが、翌年の1990年に形式廃車になっている。藤沢駅に到着するシーンを乗車ホーム側から撮影。
30年近く経った今でも佇まいのほとんど変わらない極楽寺駅。極楽寺トンネルで山を越えるため、江ノ電の中でも最も標高が高い。といっても海抜25m程度だが。ところでまた立て看板に注目だが、当時の駅にはよく青少年に見せたくない本、つまりエチエチな雑誌を捨てる専用のごみ箱が大体どの駅にもあった。白ポストと言ったっけ・・。よく子供心に、エッチな雑誌を買ったエッチなオヤヂが、使用し尽したとはいえ青少年に見せたくないがためにどうしてわざわざその「お宝」を手放すのだろうか? と疑問に思っていた。そして管理者でもあり回収の責を追う人物は、どういう顔でそれを回収するのだろうか? まさかリサイクルならぬ「リユース」するのでは・・・!? と想像していた。どうでもいい話をしてしまったが、しばらくこの極楽寺周辺を散策してみたんだと思う。
江ノ電唯一の極楽寺トンネルを抜ける列車たち。左の1000形は1979年、江ノ電50年ぶり、久々の新車ということで華々しくデビューしたのだが、なんとこの1980年代に新車として時代錯誤な吊り掛け駆動で登場したということは有名だ。ところでこちらも記憶には全然ないのだが、極楽寺下車後、この界隈をしばらくうろついて撮影していたようだ。
極楽寺車庫に集う仲間たち。なぜこんな猫の額ほどの谷間に車庫を作ったんだろうか。右奥が極楽寺駅。この構内踏切を渡り振り返り、今も昔も変わらない12分間隔でやってくる電車を撮影していた。
車庫の引き込み線方、藤沢方を向いて撮影。この後、電車に乗ってしばらく移動し、七里ガ浜、鎌倉高校前などで下車したようだ。
以上がすべての露光された画像だった。居酒屋オープンの1988年7月から横浜博のあった1989年夏まで、同じフィルムなのに約1年が空いてしまっている。この間、別のフィルムで他の旅行とか撮影とかの記録は残っているので、目的に応じてフィルムを入れ替えていたのかもしれない。この撮影から30年以上経った現在、ポジ、ネガともに各社とも製造が打ち切られ、国内では唯一フジフィルムが細々と販売を続けている状態であるが、生産終了も時間の問題といったところだろう。かつてはヨドバシカメラのフィルムコーナーに意味もなく立ち寄り、何種類もあったリバーサルフィルムの目的別の商品一覧を見ては覚え楽しんでいたが、ついこの間訪れたフィルムコーナーはわずか3種類ほどの銀塩フィルムたちが冷蔵ショーケースの中で、数少ない顧客を待っているだけだった。そんな光景を目の当たりにすると、自身、所有しているものの何年間も動かしていない銀塩EOSで、久々、いや最後のフィルム撮影をしてみようと、この記事を書いていて決意してしまった。
変色の進んでしまったものばかりであったが、当時カメラを持ってワクワクしながら散策した懐かしい日々を思い返した出来事であった。