夏休み。初めての北海道。初めての乗りまくりの旅。

1987.8/11

  ついに憧れていた北海道ローカル線の旅に出発する日がやって来た。国鉄からJRに移行した最初の夏のこと。図書館で借りた鉄道写真集で見た辺境の地を往くローカル線や、まだ当時現役だった長距離夜行列車、青函連絡船。そして1週間という人生で経験したことのなかった一人旅。全てが見たい知りたい体験したいという好奇心に満ち溢れていた。使用するのはもちろん今は亡き「北海道ワイド周遊券」。北海道内の全ての特急列車と、往復の経路は急行が使えた。計画では北海道内の主要なローカル線の乗りつぶしと、往路復路で東北の私鉄非電化路線の乗車だった。宿としては道内3方面に走っていた夜行急行列車と、青函航路の深夜便を使えば全く困ることは無かったので、文字通り乗りまくりの旅になりそうだ。とにかく夏休みに入ってからは頭の中は北海道一色。寝ても覚めても北海道。出発の日を指折り数えながら心待ちにしていた。

 8月11日。天候 晴れ。夕方明るいうちに自宅を出て桜木町駅に向かう。当時の桜木町駅は、現在の姿とイメージからは想像もつかないくらい猥雑とした薄暗い空間だった。駅周辺も臨港地区の外れという感じで、現在のみなとみらい地区の東口一体は、まだ貨物駅と造船所があった。駅に到着し高い天井のコンコースの駅舎に入る、まず目に入るのは生きているのか死んでいるのか広い通路に横たわっている黒い物体の数々。今で言うホームレス。当時は近郊の駅ではよく見かけたが、とにかくほとんど着ているものから体まで真っ黒でボロボロで、構内はいつもツンとした刺激臭が立ち込めていた。そんな屍?の間を通りながら左手にあるみどりの窓口でワイド周遊券を購入。ホームに出て上り電車を待つ。まだ残存していた非冷房車を避けるためホーム先頭に移動。冷房化の過渡期はなぜか編成両端から改造されていったのだ。無事京浜東北線に乗車。こうしていよいよ北海道への第一歩を踏み出したのである。横浜で東海道線には乗り換えず、そのまま桜木町から103系に揺られ上野に到着したのはまだ18時ころだった。今夜乗るべき「急行津軽」は22:30発。しかしお盆真っ只中。混雑を予測して早めに席取りをするためにこんな時間に到着したのだが、長距離列車の発着する地平ホームに近づいてみると何やら異様な光景。どのホームも圧倒されるくらい多くの旅行者でごった返していた。1987年、まだ高速バス網は現代のように発達しておらず、長距離旅客は飛行機か鉄道だった時代。東北方面、それも奥羽本線、東北本線、常磐線経由それぞれあり、上越方面、信越方面にも夜行列車ががガンガン走っていた。それに増して今日はお盆立ち上がり。各夜行列車に臨時便まで設定される下りピークの日でもあった。まるでラッシュアワーのようなホームをかき分け、どうにか自分の乗るべき「急行津軽」の乗車位置にたどり着くと、まだ4時間前だというのに長蛇の列。車内で喰う菓子的なものを買ってこようかと思ったが、とても身動きできる状態ではない。並んでいる人々は東北方面への帰省客が7割、旅行者が3割といった感じだが、帰省客の方はなれたもんで時間つぶしにラジオを持ち込んだり、家族客はレジャーシートを敷き重に入った弁当を囲んで団らんしている。自分は一人ただひたすら時を潰す・・・。すると向かいのホームにド派手な車両が入線してきた。






 「スーパエクスプレスレンボー」 自身初めてみるジョイフルトレイン(死語)を、列から離れて中を覗き込みたい衝動に駆られたが、今ここで離れる訳にはいかない。それからどれくらい待ったであろうか、ようやく津軽入線のアナウンスが入ると一斉に全員荷物を持って立ち上がり、一気に殺気に包まれた。やがて14系を先頭にし「急行津軽」が推進運転で入線。列車が停車するとさっきまで列をなしていた乗客たちは一斉にドアに殺到し、上野駅ホームは大混乱の様子を呈した。喧嘩もところどころ起きている。自分も負けじと車内へ体をねじり込ませ乗車することができたがすでに満席。落ち着いた頃を見計らって、どこかで拾った雑誌を床に敷いて通路に座った。しかし座るといっても体育座りが精いっぱいで、荷物を抱えながら身動きの取れない数時間が始まった。北海道への第一歩の出発は、感慨深くその期待感を胸に浸りたいと思っていたがそれどころではない。いつの間にか列車は動き出していたが、まだ車内の各所では全く理解できない東北弁同士で場所を巡って喧嘩が絶えない。何時間かするうち体育座りのまま眠りに堕ちた。




尾久から推進運転でやってきた14系。カオスな時間が始まろうとしている。

1987.8/12

 目が覚めると、いつの間にか通路で横になっていた。秋田を過ぎたころであれほど混雑していた車内は空席が目立つほどになっていた。座席に移動し残りの睡眠をむさぼる。列車は淡々と変わり映えのしない景色の中をひたすら北上し、10:54、大館に到着した。12時間以上揺られてきた14系を見送ると、夏の日差しがまぶしいのどかな駅だった。ここで降りたのは小坂鉄道に乗るためだった。2000年代まで貨物専用線として生き残ったが、当時は日に数本旅客列車もあったのでそれに乗ってみたいと思っていたのだ。晩年は小坂鉄道という名称になったが、当時は同和鉱業小坂線と名乗っており、同和鉱業という名からいかにも鉱山に関連した鉄道という点で非常に興味を持っていた。うだるような暑さの中、改札を出て、ロータリーを挟んで向かいにあった小坂線の大館駅に向かう。




上野から12時間以上乗ってきた急行津軽。繁忙期ということもあり隣には14系臨時列車も。




JR大館駅から少し離れたところにある同和鉱業小坂線の大館駅




小坂線の旅客列車キハ2100形。1994年の旅客輸送廃止後は、岡山県にある系列会社の片上鉄道に譲渡された。



 さて、乗るべき小坂行きの列車までまだ2時間以上もある。気だるい空気の流れる待合室で何をするともなくボーっとしていると、学ランの中学生くらいの男の子が話しかけてきた。どこから来たのか?歳はいくつか?どこへ行くのか?と一通り質問されるとどこかに行ってしまった。この時間、列車を待つ人が珍しかっただけかもしれない。それから何をして時を過ごしたのか全く覚えていないが、時間になり改札が開いてホームに出る。広い構内で貨物メインの鉄道らしく、長大な側線と貨車群が目に入ってきた。13:37 出発。乗客は他に誰もいなく、自分一人を乗せた列車は町中を抜けると渓谷沿いに走り始めた。運転席後ろの席に陣取り窓全開で風を感じていると、車掌が話しかけてきた。「運転席入っていいよ」 子供一人が興味津々で運転席を覗き込んでいたから誘ってくれたのだろう。お言葉に甘えて終点小坂まで特等席で過ごすことができた。




長木川に沿って奥地へ進む




当時は全く意識しなかったが、唯一の交換駅「茂内」と思われる。





 終着小坂まで前展を楽しみ14:13到着。運転士と車掌に礼を言い外に出てみると、大館と同様、夏の太陽だけが照り付ける人の気配が感じられない広い構内を有する終着駅だった。




画面中央の赤い屋根が小坂駅。




午後の終着駅の情景。機関車は洗車中。



          

 ここでもどうやって折り返し待ちの1時間40分を過ごしたのか全く覚えていなく、記録では15:50発の大館行きに乗って小坂を後にしている。16:26 大館着 ここからは都合のいい列車がなかったので、やむなく特急券を払って「特急たざわ」で青森を目指す。今日は今のところ、夜行列車を降りた時に大館で喰った立ち食いソバしか食事をしておらず、思わず通りかかった車販で食糧を買おうと思ったが、今回はやむなく食事にありつけない訳ではなく、単に節約のために絶食を決めていたことを思い出し、車販を横目で見送った。しかしいよいよ青函連絡船、そして北海道上陸だ、とニヤニヤしていると空腹のことなど忘れ、期待感で腹一杯になっていた。すると車内放送で連絡船乗り継ぎの乗客に乗船名簿を配るというアナウンスが流れた。しばらくすると車掌がやってきて申し出た乗り継ぎ客に薄い紙切れを渡していった。その場で書いたか、青森に到着してから書いたか、こちらも記憶になく、ただ繁忙期は列車から連絡船へは全速力でダッシュしなければ場所確保ができないということは知っていたので、恐らく車内で書いて港で提出したものと思う。18:24 青森到着。下車や他列車への乗り換え客は南側の跨線橋を渡るのは現在でも同じだが、連絡船現役時代は渡道者は反対方向の北側の連絡階段へと向かった。まだ乗るべき便まで時間があるので乗り継ぎ客の殺伐とした感じは無く、皆黙々と長いプラットホームを北端まで歩き、連絡船乗り換えの跨線橋に吸い込まれていった。乗り換え口には、切符売り場(精算所?)の窓口、売店、テレビが大音量で流れている広い待合室があり、皆、自分の乗るべき便をここで待っていた。しばらくすると、いつの間にか入港していた便の出発準備が整ったとかで、乗船が開始されることになった。さすがにお盆期間中ということもあって、乗船客はかなり多い。自分は薄緑のジュータンの升席の一角を占拠することができた。19:50 青函連絡船9便、八甲田丸出航。最初は記念すべき人生初の本州脱出を甲板に出て別れを告げたいと思っていたが、混雑がひどく、占有スペースを空けると誰かに侵略されそうなほどだったので、船窓から暗くなった海を眺めていた。出航からしばらく経ち、客室が落ち着いてきたので早速船内探索に出かけた。




八甲田丸のシンボルマークは蓮の花。連絡船全てにそれぞれ名前に由来したシンボルマークがあった。






こちらはグリーン船室(自由席)。すこし毛足の長い絨毯で居住性は普通船室と全く変わらない。空いているのがウリだったようだ。




お手製感満載の現在位置表示。ここ青函連絡船は鉄道と同じ左通行だ。




賑わうエントランス付近。売店や案内所もあった。

 売店でこれからの行程でヒマになった時の時間つぶしにと、西村京太郎の文庫本と、北海道内限定販売の「道内時刻表」をそれぞれ購入。北海道を舞台にしたものをと思っていたので、たしか「特急おおぞら殺人事件」みたいなのを選んだ。初めて乗った大型船舶というものに興奮してしまい、ほとんどの時間を探索に充てているうち、やがて函館入港とのアナウンスが流れる。本日一番の勝負の時でもある。この便に接続する札幌行き臨時急行「すずらん」の座席を確保するためだ。接続時間はわずか13分しかない。青函連絡船はその名の通り、青森と函館でそれぞれ優等列車に接続するダイヤを取っていた。本来であればこの9便は0時前に函館に到着し、翌朝まで接続する列車はなくなってしまうのだが、当時ハイシーズンだけ函館〜札幌に夜行の臨時急行「すずらん」が設定されていた。恐らくこの9便の乗客がほとんど乗り換えるはず・・・。子供心にそれを察知して入港のしばらく前から下船口にスタンバイしていた。23:45 着岸。ゲートが開かれ一斉に人々がダッシュする。長い通路をひたすら駆け抜けホームに駆け下りるとすでに14系の「すずらん」はスタンバイしていた。幸い窓際の確保に成功。そして続々と船から降りた乗り継ぎ客で満席となり、行きの「津軽」と同様立客も出始めた。23:58 函館発車。初北海道上陸に感慨に更けるわけでもなく、いつしか深い眠りに堕ちてしまった。




道民の道民のための道内限定販売「道内時刻表」

1987.8/13

 明るくなった頃、「すずらん」はまだ地平駅だった札幌に到着した。今日の予定は石勝線経由で道東方面。夕方戻ってきて夕張支線を往復するつもりだ。普通に183系の特急「おおぞら」に乗ってもよかったのだが、今日はジョイフルトレイン「アルファコンチネンタルエクスプレス」使用の臨時特急「リゾートエクスプレスおおぞら」が運転される日でもある。自由席もあるのでワイド周遊券でジョイフルトレインにタダで乗ってみようと計画していた。しかしまだ出発まで2時間以上も時間があったので、札幌市営地下鉄の乗ってみることにした。ゴムタイヤ式に興味があったのだ。札幌から南北線で真駒内へ。折り返しジャンクションでもある大通りへ戻り、東西線に一駅だけ乗って札幌に帰ってきた。




おそらく開業時から使われている電車。レンズに指紋が付いていたのかとずっと思っていたが、ボケていないので写真屋さんの指紋ということが30年目にして判明。




雪国なので地上区間はすべてシェルター内。




南北線用の多分、新型車両。




東西線にも一区間だけ乗車。まだ東豊線ができる前で地下鉄は2系統しかなかった時代。



   
札幌駅地平時代。存在した0番線に入線した北海道JT第1弾 「アルファコンチネンタルエクスプレス」

 時はまさにバブル絶頂期。豪華絢爛なリゾート列車が各地に登場し、都会の富の享受者をリゾート地へ運んでいたその時代。子供心にテレビとかで見る世間の大人たちは浮かれていたと思うし、将来自分が大人になったらキレイなオネーチャンを連れて豪華なホテルで豪華な食事をしなくちゃならないんだな〜と子供心に本気で思っていた。そんな時代に登場したアルコン。ゴールドメタリックという後にも先にもないカラーリング、車内も煌びやかなくらいの設備を持っており、何ともバブリーな印象とは裏腹に、どこかレトロなディーゼル音を響かせていた。そう、アルコンはキハ56からの改造車だった。



 ごらんのように先頭車は、運転席後ろの何席かがハイデッカー構造の展望ルームになっており、ここだけ指定席だったと思う。しかしこの展望ルームの通路には折り畳みの補助椅子が設置されており、自由席しか乗れないワイド周遊券所持者はこの折り畳みイスを勝手に展開して前展を楽しんでいた。あとあと考えればマナー違反だったが、そうとは考えず自分含めた自由席の乗客で展望室は満席となった。そして8:10、出発。




車内から。苗穂工場には後発JTの「フラノエクスプレス」、国鉄色キハ56の姿も当たり前のようにあった時代。




軌道は高規格な千歳線だが、性能が性能なだけに特急らしからぬスピードで坦々と走る。




夕張支線の分岐駅、新夕張には渦巻型のタブレット受器が残っていた。現役なのだろうか?

 石勝線は昭和56年に開業した新しい路線らしく、重厚な軌道と直線、長いトンネルの連続で一気に無人の原野を貫いている。駅間も長いので分岐がシェルターに覆われた信号所が随所にあり、上り特急列車や貨物列車などと交換を繰り返しているうちに「トマム」駅に到着した。つい最近までは「石勝高原」と名乗っていたそうだが、大型リゾート開発にあわせて「トマム」と改称された。この「リゾートエクスプレスおおぞら」もこのトマムへの旅行者を目的の一つとしているようで、しばらくの間、停車するとのことだった。






しばしトマムに停車。スノーリゾート地として有名だが、夏はどんな需要があるのか・・・。それなりに若者が降りていった。




どのこかの信号所で交換待ち。国鉄最末期に登場した183系気動車と交換。これも立派な国鉄色。

 ここまで坦々と書き連ねてきたが、初めての北海道、初めての路線、初めての大旅行にただただ満ち足りた気分であり、写真の中でしか知らなかった北海道の鉄道の情景に好奇心が抑えきれなかった。特急列車に乗って駅で乗り換るという当たり前の行動一つとっても、新鮮だった。
 列車は狩勝峠を越えいよいよ十勝平野へ。新得までの区間はこの路線のハイライトであることは知っていたので、ワクワクしながらトンネルを抜けるのを待っていると、一面深い濃霧の世界でガッカリした。やがて帯広着。ここでもしばらくの運転停車でホームで写真を撮ったり、改札を出てみたりと忙しかった。




地平時代の帯広駅で長時間停車。かつては士幌線、広尾線も分岐していたターミナルだ。

 この臨時特急はここ帯広止まりではない。なぜかこの先の池田が終点である。さして大きくない街である池田町を選んだ理由が謎であるが、札幌から4時間以上乗り通してきた列車を降りると、案の定こじんまりとした田舎のどこにでもある駅だった。そして下車して20分後、やって来た上りキハ183系特急「おおぞら8号」で今来た道を引き返す。絢爛豪華な外装と裏腹にボロエンジン搭載のアルコンとは、走りに隔世の差があり、俊足で十勝平野を駆け抜ける。その後登場した振り子式のバケモノのような出力の特急気動車と比べれば雲泥の差かも知れないが、新鋭の気動車の足はすこぶる俊足だった。独特の高周波のビートを刻むエンジン音もカッコいい! 2時間ほど走りを楽しんで、先ほどタブレット受器に感激した新夕張で下車。ホームの先端で池田から乗ってきたキハ183を後追い撮影した。




塗装も似合ってスマートですね。編成中にはバリアフリー対策で現代では禁断のハイデッカー車も組み込まれている。




そして振り返れば長いホームにポツンと夕張支線用のキハ40。これで夕張を目指す。

 夕張はかつては炭鉱で栄えた町。華やかだった当時の面影を残す夕張支線とその沿線にずっと興味を抱いていた。本来であれば地方交通線83線に選ばれるほどの乗車係数なのだろうが、幸いにして石勝線の支線扱いということだけでこの後も21世紀まで存続することになるが、ついに2019年春に廃止が決定したのはこの写真から30年後のことだった。15:25、新夕張出発。帯広方面の線路と別れるとすぐに高規格の本線とは打って変わって、貧弱なローカル線の乗り心地になる。途中の清水沢駅に停車。つい先月1987年7月まで、この清水沢から南大夕張まで「三菱大夕張線」が存在していた。当然石炭輸送のために建設された路線であるが、なんといっても最末期までDLによる旧客運行が行われていたこと。3軸ボギーとかストーブ列車、そして乗客は便乗的な扱いだったためか終点まで60円の運賃など、ただならぬ雰囲気で興味を持っていたが、たった1か月で乗れなかったのは非常に残念だ。




道内時刻表から。ついで運賃といい一度でいいから乗りたかった。




車窓には使われなくなったいくつもの炭住群。

 30分ほどの乗車でいよいよ終着夕張に到着するようだ。栄枯盛衰を見守ってきた終着駅はどんな佇まいを見せてくれるのだろう。高鳴る鼓動を胸にホームに降りると、なんだか想像していた情景とかけ離れ過ぎていて、拍子抜けしてしまった。



 「か、貨車駅ぃ〜??」 どうやら最近、元の夕張駅から市街に近いこの場所に移転したそうな。1線1面のホーム。近くには役所の建物。そしてこのワム改造の待合室。激しく落胆したことを今でも覚えている。すぐに折り返しの列車で戻るつもりであったが、1本見送ってその間に旧夕張駅を探索してみることにした。途切れた線路の先を数100mほど進むと視界が急に開けてきた。線路は剥がされているものの広い構内跡は見て取れる。三角屋根の特徴的な駅舎も健在だった。





 駅跡探索を終え旧じゃないほうの夕張駅に戻り、17:52発の列車に乗り込む。この列車は新夕張止まりではなく追分方面に乗り入れる列車だったが、終点の追分まで乗客は自分1人だけで、これも初めて経験することだった。すっかり暗くなった追分で下車し、札幌行きの列車に乗るべく待合室で時間を潰していると、かつて経験したほどのない空腹感が急に襲ってきた。それもそのはず、今日一日何も食べていなかったのである。初めての経験づくしでずっと朝から血がたぎっていたため空腹を忘れていたこと。そして極度の金欠だったことだ。10代前半の経済力。お年玉と毎月1000円程度の小遣いを貯め、それでも足りなく親に必死の懇願で幾らばかりかの融資を得て、その中から北海道ワイド周遊券の旅費を捻出。するともう残った僅かな資金でこの数日間を食つなぐのは1日1食の手段しかなかった。そしてこの追分で限界を迎えてしまった。まだ当時、地方の小駅にはキオスクや立ち食いソバもあったりしたので、ここで¥200程度のかけそばを本日最初で最後のディナーとしたのである。空腹をようやく満たした後、やって来た特急に乗り札幌へ向かう。もう8月も中盤というところ。お盆の帰省ラッシュも始まっているので、すぐに乗り換え列車の場所確保に動く。今夜乗るのは夜行急行「まりも」釧路行きだ。出発まで2時間ほどあったが、すでに各乗車口には長蛇の列ができており一番短いところを選んで列車を待った。連絡船内で買った小説を読みながら時間を潰していると、前方で並んでいた青年に声を掛けられた。自分と同様一人旅をしているというその青年は16歳。埼玉から来た社会人だという。今回の旅の経路や目的からすっかり意気投合し、自分の明日の予定を話しているうちにすっかり乗り気になってくれて同行してくれることとなった。
 明日の予定とは、かねてから計画していた案件で、白糠線の終着「北進駅」跡の訪問である。白糠線は地方交通線廃止第1号の路線として知られており1983年に廃線となった。沿線の茶路炭鉱から産出される石炭輸送を目的として建設されたが、終着「北進」まで開通したのは1972年のことであるが、すでに当時は石炭は斜陽産業になっており、結局建設当初の目的を果たせぬまま開通からわずか11年足らずで廃止されてしまったことは有名だ。白糠線は石炭輸送だけでなく、この地方一帯の開発の目的も担っていたため最終目的地は地北線(現:廃止)の足寄までを計画していたが、途中の北進まで開通されたのを最後に建設は中断された。そしてその目的半ばにして終わった終着「北進駅」は周囲には民家すらない原野の中、一面一線のホームだけがある写真をどこかの紙面で見て、一瞬で虜になってしまったのだ。廃止から3年、現状はどうなっているんだろうと旅の予定に組み込んでいた。
 さて「急行まりも」は22:25分札幌出発千歳線に入るとすぐに減光され、暗闇の原生林の中を一路、釧路へと走るのだった。

1987.8/14

 翌朝、終着釧路の一つ手前の白糠に到着。ドアが開き、昨日出会った埼玉氏と一緒にホームに降りようとすると、なんとそこにはホームは無く、何にもないただの線路上にそのまま直接降りる場所だった。どうやらお盆期間の増結によりホーム有効長が足りなく、こういうワイルドなことになってしまったらしい。エイヤーと14系客車から線路に飛び降りると辺りは一面濃霧の真っただ中だった。白糠線廃止後の代替バスまでしばらく時間があるので駅待合室でしばらく時間をつぶす。しばらくしてやってきた代替バスは小さなマイクロバスで我々2人のほかに、地元の方2名ほど乗せて6:10白糠駅前を出発した。霧が晴れてきた市街を抜け国道を進むと、すぐに白糠線の遺構が平行してきた。1972年という新しい路線のため、鉄道建設公団が手掛けた新線でもあるのでどれも遺構はとても立派で、まだ新しいコンクリート橋で山河を一気に貫いていた。





 いずれもバス車内から。40分ほどバスに揺られ終着の「二股」に到着。二股というのが本来のこの地名で、駅名の北進というのは将来の延長を期待し「北にさらに進むように」と願いを込めてつけられた駅名だとのこと。その二股のバス停に降り立つと、民家と商店が数件あるほどの小さな集落だった。なぜ鉄道はここを一時的にでも終着に選んだのか定かではないが、それほど言われなければ通り過ぎてしまうほどの町だった。国道から駅方面へ。緩い砂利道の下り坂をしばらく進むと、くぼ地のような少し開けたところに突如として、国鉄白糠線の終着「北進駅」があった。




当時より周囲の草木は伸びてしまったが、雰囲気は健在。手前が白糠方。




埼玉氏がたたずむ、これが北進駅全景。駅舎どころか待合室もないただのホームだけの終着駅。




車止めも無い北端部。ここからさらに峠を越えて足寄まで延伸される予定だった。




白糠方から場内に進入する列車の気分で。

 駅跡からしばらく線路上を歩き最初の橋梁まで行ってみたり雰囲気を1時間ほど満喫していたが、それでもすることがなくなり、帰りのバスまで二股の集落まで戻り、2人で小さな公園のブランコで遊んで時間をつぶした。この北進界隈には3時間ほど滞在し、9:45発のバスで白糠へ戻る。

 ところで今日はこの北進駅跡の訪問が目的でもあったため、途中の沿線の遺構はバス車窓から見物するだけであった。なのでこの北海道旅行から5年後の1992年夏、初めての北海道ツーリングでも白糠線沿線を訪問しており、少ないながらも途中駅の様子を記録に残しておいた。




前訪問から5年後の1992年。廃止から9年後の北進駅跡。すっかり自然に還ってしまった。




唯一の交換駅「上茶路駅」 列車交換設備もあり、有人駅だったようだ。




上茶路駅前ロータリー。事務室内には帳簿類のほか、CTC操作盤などが放置されていた。

 埼玉氏と白糠から快速「ぬさまい」に乗車。さらに終点の釧路から急行「ノサップ」に乗車。満員で発車した冷房の無いキハ56はどの窓も全開に開け放ち、根釧台地を東へ向かう。2時間ほど乗車し根室までへは行かず厚床で急行を下車した。ここから2年後に廃止される標津線に乗るためだ。しかし標津線乗車が今回の目的ではなかった。1駅行った奥行臼を拠点にかつて存在した別海村営軌道の跡を探索するためだ。最近となっては史実として認識されるようになった北海道に存在した、いわゆる拓殖軌道、簡易軌道というものだが、現代では当たり前のようにネットで情報を得ることができるのだが、当時としてはその情報源はあまりに少なく、どこのかの書籍で見た小さなディーゼルカーが生乳を積んだ2軸のタンク車を牽き、ヘロヘロのか細い線路を行く画像に衝撃を受け、せめてその遺構や雰囲気などの名残を感じれればと、目的地の一つとして決めていた。その別海村営軌道の拠点が標津線奥行臼だということを知り、標津線に乗り込んだのだった。低木がひたすら続き、人家はおろか人工の建造物すらない根釧原野をひたすら走ること15分。ようやく隣の駅、奥行臼に到着。駅周辺は二股同様、人家数件と商店があるだけの小さな町だった。まずは調査。商店のおばちゃんに村営軌道の駅と線路の場所を聞いてみると、詳しく教えてくれた。行ってみると確かに教えられた通り、機関庫やターンテーブル跡などがあったが、他は夏草に覆われており道路と平行してあったという軌道跡は完全に草木に埋没しており、ほとんど往時を偲ぶものはほとんどなく落胆した。




おばちゃん曰く、機関庫の跡とのこと。なんか大きすぎる気もするし、本当かなと子供心に懐疑心があった




ターンテーブルの跡とのこと。廃線から20年以上経っているはずだが構造物が妙に新しくないか・・?




南側、厚床方面を望む。この道の右側の草むらの帯が軌道跡とのこと。




振り返って北側。この先が奥行臼だ。

 雨も降ってきたし、疑わしい遺構ばかりでテンションはダダ下がり。これ以上の聞き込みと探索はせず、駅へと戻った。同行の埼玉氏には、こんな小僧の戯れに付き合ってくれて本当に申し訳なかったと思った。この時間、標津線に乗って根室標津でも往復したほうが、自分も埼玉氏もよっぽどいい経験と思い出になったと今では思う。やがて厚床行きがやって来た。




ホームに佇む埼玉氏と厚床行き356D。この奥行臼には2時間少し滞在した。




厚床到着。釧路方を撮影。




厚床から乗車したキハ22の釧路行き538D。途中厚岸でしばらく停車。まだJR化直後だったので、地域色の登場はまだまだ先のこと。

 1日中、埼玉氏は意見一ついうでもなくただただ付き合ってくれて感謝だった。釧路から二人で札幌行き「まりも」に乗車した。

1987.8/15

 翌朝6:52、札幌到着。今日の行程は、おととい自分が乗車したアルファコンチネンタルエクスプレスの魅力を埼玉氏に話したところ、是非乗りたいというので、今度は自分が埼玉氏に付き合うこととなった。


札幌駅東端にあった踏切から、残存していた50系客車が出発。たぶん車軸に付いた発電機が珍しくて撮ったと思う。奥には現在の高架が建設中だ。




今日もリゾートエクスプレスおおぞらが0番線に入線。




今日は最高の天気の中を石勝線を東へ飛ばす。




運転士さんも気持ちいいんだろうな〜




帯広の長時間停車にて、ホームにあったハリボテのフラノエクスプレス。

 初めて乗るアルコンに埼玉氏は大満足だったようだ。自分は2日前に乗ったばかりであったが、埼玉氏の喜びが単純に嬉しかった。終点池田まで乗りとおし、特急「おおぞら」で札幌に引き返す。やって来たキハ183はお盆ということもあって大混雑だった。どうにか乗り込んだ列車ではあったが、デッキでは身動きとれないほどで、仕方なしに埼玉氏と無理やり車内を移動し、ハイデッカーのグリーン車まで来てしまった。あまりの混雑に本来ならあり得ないグリーン車の通路にも、たぶん我々と同様ワイド周遊券旅行者があふれかえり、車掌が来ないことをいいことに、ここで過ごさせてもらうことにした。満員の乗客を乗せ、3時間少し走り16:04札幌に到着。二人今後の行動を話し合った。埼玉氏はまだ時間的に余裕があるらしく、今日夜行大雪で網走に向かって、明朝網走を発つ、長距離特急「おおとり」で函館まで乗り通したいとのころ。自分はというと幹線の特急なんかよりも、昨日一昨日と消化できなかったローカル線に乗りたいと考えており、今日別れることにした。2日間とは言え常に行動を共にしてきた埼玉氏。別れ際、少し泣きそうになってしまったが、連絡先はおろか名前も聞いていないことから、今回は勝手に埼玉氏と呼ばせていただいた。あれから30年以上。お元気だろうか・・。




何の気なしに撮った781系「ライラック」。この時は「お!? 国鉄色!」なんて考えもしなかった。




リニューアル色、スラントノーズ型のキハ183系。1986年に登場した非貫通型の塗色に順次変更されていった。




釧路に向けて出発を待つ特急「おおぞら」。隣には国鉄色のキハ56と古き良きターミナル駅の風情を残す長距離用ホーム。

 さて今夜は最北の地を目指す。夜行急行「利尻」。末期にはキハ40の大出力化改造されたヤツに置き換わっていたが、まだこの当時の道内夜行の「利尻」「大雪」「まりも」は全て14系客車が就いており、確かすべての編成に1両か2両だけB寝台車が連結されていた。ほとんどの旅行者、いやテツ達はワイド周遊券で、これらの夜行急行を寝床として利用し、宿泊費を浮かせ、まだ廃止前だった長大3線と言われていた「天北線」「地北線」「標津線」をはじめ、道内の鉄道を乗りまくりしていた。自分は積年の夢だった北進駅訪問と村営軌道訪問、そして初めて乗る豪華列車「アルコン」にうつつを抜かしていて、地交線にはほとんど乗っていなかった。なのでまずは稚内を目指すべく、3時間ほど前から「利尻」の座席確保のためホームで並んでいた。


どこかの駅に置いてあった青春18きっぷのパンフレットがあった。旅情をかき立てられる描写が毎年シーズンになると駅貼りやパンフレットになっていた。
今思えば現代の18歳がこの切符を使って、こんな素敵な旅をするのだろうか? ・・・と、おっさんは思う。

1987.8/16

 6時ちょうど、稚内到着。乗るべき列車まで相当時間があったので、時刻表を見て、時間つぶしに行けるとこまで行って往復して稚内に戻って来ようと考えた。ガラガラの普通列車に乗車。1時間ちょっと走り幌延到着。ここで交換する稚内行き普通列車に乗るべく跨線橋を駆け上がるとすぐに出発した。途中どこかの駅で列車交換のためしばらく停車とのことで、ホームに降りて撮影してみようとすると、やって来たのは今朝札幌から乗ってきた「利尻」の編成。夜行の「利尻」は稚内到着後、昼行客車急行「宗谷」として札幌を往復していたのだ。




駅の規模から豊富と思われる。こんな列車が昼間ゴロゴロ走っていた時代。

 写真を見てみるとスハネフ14も付いたままだ。どうやら寝台を座席代わりに使う、いわゆる「ヒルネ」も運用していたようだ。この急行「宗谷」の他にキハ54を使用した急行「礼文」、天北線経由の14系急行「天北」もあり、まさに国鉄天国! 21世紀の現代、最新振り子気動車がその名を引き継いで「スーパー宗谷」として高速で行き交うなどとはこの時思いもよらなかった。しかしさらに時代は流れ、この宗谷本線自体も経営が困難とJRが発表したのは最近のこと。いったいどうなってしまうんだ日本の地方は! 




何気なく停車した小さな駅で撮影。




よく見れば稚内の2つ手前の抜海(ばっかい)と見て取れる。これから10年後、ツーリング途中にここで駅寝した。

 9:14 稚内に戻ってきた。これから乗るのは先ほど述べた昼行客車急行の天北線経由、急行「天北」だ。天北線は近々廃止されることも知っており、この旅で最も楽しみにしていた行程だ。札幌まで7時間以上。簡易式と言われた、つまり途中の角度で固定できないながらも快適なリクライニングシートで廃止予定の天北線に乗る、というだけで興奮もの。絶対に窓際の座席を確保したいがために、2時間前からホームに並び14系が到着するのを待った。やがて列車入線。列車待ちの列も長くなっていたが、ドアが開き車内に乗客がなだれ込むと、ちょうど席がすべて埋まるくらいであった。12時ちょうど。札幌行き天北線経由、急行「天北」出発。南稚内から宗谷本線に別れを告げていよいよ天北線へ。しかしながら、海沿いを走るわけでもなく、山道を登るわけでもなく、ただ淡々と原野の中を走る風景に飽きてしまい、途中居眠りをしてしまった。しかし居眠りから覚めても依然同じ景色の中を往くだけであり、また居眠り、起きてをしばらく繰り返しているうちに旭川を出発するころであった。今思えばとんでもなく勿体ない経験! 最後まで自動化されずタブレット閉塞だったため、急行「天北」は敏音知(ぴんねしり)、声問(こえとい)などの駅で通過授受を行っていたことを知ったのも最近のこと。あの時の自分に小一時間ほど説教してやりたい気分だ。そんな訳でまどろみの中、札幌19:14着。時間がないため駆け足で跨線橋を渡り19:21発の特急「北斗」に間に合った。もう所持金もほとんど無いし、日程的にも余裕がなくなってきたので帰路に就くことにする。発車間際だった上、帰省客で非常に混雑しており空席は当然無く、函館までずっと立ちっぱなしになりそうだった。函館に23:19に到着するこの「北斗14号」は、青函連絡船の夜行便に接続する最終列車だが、この混雑状況、どう考えてもほとんどの人は途中で降りそうなビジネス客や、洞爺温泉辺りで降りそうな観光客の姿は見当たらず、ほぼテツか帰省客で占めているようで、この人らがほぼ全員連絡船に乗るのかと思うと恐ろしくなってきた。なので立ちながら時刻表を取り出し連絡船のページを確認すると、やはりあった! 繁忙期に運航される臨時便があるとのこと。定期夜行便は0:30に毎日出港するのだが、臨時便はそれより少し早い0:10に函館を発つ。しかしながら臨時便は、通常の定期便に使用されるいわゆる「津軽丸型」とは線内設備が異なり、グリーン船室、寝台はおろか食堂すら備えてなく、貨物船からの改造のオールモノクラスの「石狩丸型」客船が使われるのだ。風情もへったくれも全くないが、この異常なほどの混雑を回避しようと、この臨時便を使用することに決めた。やがて「北斗」は函館に到着。待ち受けているのは恒例の「函館ダッシュ」だ。当時の大垣夜行から西へ向かう列車に乗り換えるための通称「大垣ダッシュ」と同様のものである。ドアが開くと皆、連絡船乗り換え口に向かって猛然とダッシュ。今日は臨時便もあり2本体制なのだが、誰一人余裕をこいている者はいなかった。待合室に到着し、先行する臨時「102便」の乗船口はすでに長蛇の列。順番を待ってようやく乗り込むと、すでに座席は全くなく、多くの乗客がそうしたように、自分は通路に新聞紙を広げて何とか居住スペースを確保することができた。

1987.8/17

4時間の船旅。眠れたのかそうでなかったのか全く覚えていないが、早朝の青森に到着。しばらく待合室で仮眠して東北本線普通列車に乗り込んだ。やって来たのはED75に牽かれた50系客車だった。まだ夏休みであるにも関わらず多くの通学客のためデッキで1時間ほど立っているうちに野辺地に到着。当時存命だった南部縦貫鉄道にこの度の帰り際、訪問することにしていた。




向かい側の南部縦貫鉄道ホームには2軸のレールバスが乗客を待っていた。


発車を待つ七戸行一番列車。東北本線ホームには、おそらく青森に向かう583系「はくつる」が停車中。

 7:30野辺地出発。初めての乗り心地のレールバスにボヨンボヨン揺られて七戸を目指す。速度は直線でもかなりノロかったが、たぶんこれ以上出すとレールの状態や2軸客車ということからボヨンボヨンがさらに増長して脱線してしまうのだろう。レールバスは小さな駅にこまめに停車していくが、終着まで乗り降りした人は1人か2人で、そうこうしているうちに8:07、本社や車庫のある雨の七戸駅に到着した。




晩年までほとんど変わることのなかった七戸駅。廃止はこれから8年後。また23年後にはこの町に新幹線もやって来る。




か細い線路をすすむ機械式レールバス。これでも一部区間は旧東北本線の路盤を使用していた。









七戸にて売れ残った記念切符が格安で売られていたので購入した。今こんなのが発売されたら徹夜組も出現するのだろうか。

 七戸で折り返しの1時間を過ごし再び野辺地に戻ってきた。野辺地からも往路と同じ50系客車に揺られ青森へ。とうとうこの旅も終わりに近づいてきたと思うと、人生初めてと言える虚無感に襲われた。とにかく楽しかった6日間。これから先、何を楽しみに生きていけばいいのだろうかと、本当に途方に暮れたを覚えている。でもあれから30年経った今、子供の頃の鮮烈な体験でも、時が経つごとに薄らいでゆくが、この記事を書くために当時の写真や旅の記録、保管していた切符などを改めて見てみると、ほぐれていた断片的な記憶が少しづつつなぎ合わさっていき、またあの時の高揚感も思い出してきた。もう無理だと思うが、またあの時のようなワクワクした気持ちで旅をしてみたい。

 青森に戻ってきたのは11時過ぎ。関東へ帰る夜行急行は東北本線経由の「八甲田」、奥羽本線経由の「津軽」、臨時夜行(たしか十和田)もあり選び放題だったが、青森で時間を持て余すのもイヤだったので、一番出発の早い15:54に青森を出る急行「津軽」を選び、この長い旅は幕を閉じた。