1987年   とある雑多な鉄道風景

1987上旬?

 想い出写真館の記事を更新するために、過去の写真をほじくり返したり、自身が残した当時の記録を見たりしているうち、現代では容易にネットで過去のことが分かるなどし、断片的だった当時の内容がつながったり、ふとその過程の中であった出来事を思いだします。どこかの記事にも書きましたが、時空を超えて情報が分かる瞬間は、作業していてとても爽快な気持ちなります。

 私は前職の写真屋だった頃、過去撮影したネガ画像をすべてデジタル化していました。それを年代順に、またフィルムごとに整理して、外付けのハードディスクに保管しており、またそのHDが故障してしまった時のために、半年に一度はもう一台のHDにバックアップとして定期的にコピーを作っています。動画も同様です。なので思い出話を執筆している際に過去の画像を見ていると、たまにテーマとテーマの間に全く関係ない写真が写しこまれていたりします。子供にとってフィルム代と現像代は非常に高価でしたから、ある日のお出かけが終わってもフィルムが残っていたらそのままにし、当たり前ですが次回に繰り越していました。今回はそんな単発ものの写真と、出かけるとき愛用していた最安値のISO100の12枚撮りのフィルムの画像をお届けします。ハッキリ言ってネタはショボイですが、時は1987年(昭和62年)、国鉄がJRに移行した年。青函トンネルも瀬戸大橋もなかった時代のものです。



 東武鉄道の浅草です。今は特急になってしまいましたが、当時は1800系の急行「りょうもう」が伊勢崎線系統の優等列車でした。わざわざ前面窓に「赤城」とありますが、「りょうもう」は行き先が群馬県内の様々な駅に向かっていたからでしょう。1800系「りょうもう」は足尾線のページでご紹介した通り、友達と帰りに乗っています。今回は浅草からどこに行ったかというと次の写真に答えはありました。





 上信電鉄200形と100形です。1987年正月、オヤジの実家がある下仁田へ家族で帰省した際の一コマでした。普段は特急や新幹線などの選択は無いドケチ家庭でしたので、いつも上野から115系普通電車に2時間揺られ高崎へ向かっていましたが、子供心に高崎線はとても退屈な電車だったので、新幹線は無理でもせめて185系の新特急に乗りたいとお伺いを立てても絶対に許可が下りそうにないことは重々承知していたため、「東武鉄道のりょうもうを使っても私鉄だから国鉄の普通列車で行くより安いよ」と母親にウソをつき手配を全部任せてもらうことになりました。そう、当時は国鉄運賃は高く、私鉄は格段に安いというのが常識でした。「りょうもう」は全車指定席でしたので家族分の座席予約をしなければいけません。今ならネットでパパッとでしょうが、当時は電話予約。時刻表に掲載されている東武鉄道に電話し予約を完了させましたが、発券は東武系列の旅行センターに行って受け取るように言われました。幸いなことに横浜にその東武トラベルの支店があったので、ニヤニヤしながらチャリを走らせ、家族分のチケットを入手し、当日、京急〜浅草線〜東武伊勢崎〜両毛線で高崎に向かいました。ではどのくらい運賃に差があったのか検証してみましょう。当時の運賃は分かりませんので、現代で行った場合のシュミレーションです。

 JR一本だと¥2270です。ていうか乗り換えなしで行けるようになったのと、特快だと2時間15分で高崎まで行けちゃうんですね。時代を感じさせます。さて東武特急「りょうもう」乗車の場合です。

 4社乗り継ぎ運賃と特急券合計で¥3220です。JRよりは高いですが意外でしたが約¥1000程度の差でした。両親は運賃のウソは気が付かなかったと思いますが、実際115のボックスシートは窮屈に感じていたようで、りょうもうの優等列車仕様のリクライニングシートに非常に満足し感謝されたように記憶しています。




 次の写真はいきなり山手線103系です。4月1日のJR誕生を記念して、山手線の一部の編成を各所から集めた103系を混色にし、期間限定で走らせていたと記憶しています。では調べましょう! 確かに、新生JRを記念して4/11(土) 4/12(日)の2日間限定で、山手線の2編成を首都圏の各線区から集めた様々な塗色の103系を2両づつつないだ計5色にし、記念列車として走らせていたようです。当時はまだ103系が運用していたいくつかの線区に混色編成は存在していましたが、せいぜい2色程度であり、この山手線ウグイス色+中原黄色+豊田オレンジ+松戸エメラルド+浦和水色で組成され堂々の10連として山手線の営業列車に就いていたため、さぞ話題になったことでしょう。記憶をたどると当日、この列車を撮影してみたいと東横線で渋谷に降り立ち、撮影地なども当然分からないまま駅周辺をウロウロしていると、偶然にも山手線をサイドから望める宮下公園にたどり着きスタンバイ。どのくらい待ったか覚えていませんが、山手線は1時間で1週することは知っていたので、曇り空の中、しばらく待ってみました。しかしようやくやって来た目当ての103系混色ですが、サイドからだと意外にスピードが速く、当時、手動巻き上げのカメラだったため1両目のシャッターを切ったところで断念し、目の前を次々に登場するカラフルな103系を仕方なしに見送った記憶があります。ところで30年以上経った今、撮影日時を特定すべく、当日の天候を調べてみると、土日両日ともに東京は曇り。しかし非常に寒かった中待っていたことだけは覚えていたので、最高気温19.6℃の4/11土曜ではなく、4月としては真冬日並みの9.0℃の4/12日曜日の撮影だと思います。当時は、半ドンと言って土曜も普通に午前中だけ学校とか会社がありましたからね。日曜の午前中に出かけて行ったものと思います。



 写真からではありませんが国鉄最終日の硬券入場券が出てきました。この日は当日廃止になる筑波鉄道に乗りに行っていたため、行き帰りのどちらかに関内駅に寄って記念に購入したのでしょう。もうこの頃になると硬券を扱っている駅は首都圏ではほとんど無く、記念切符扱いで発売したものと思います。でもこの1.2年前では首都圏の国鉄、私鉄でも普通に窓口で硬券を販売していて、窓口で行き先を告げると、駅員が硬券がみっしり詰まった棚から即座に手際よく1枚取り出し、日付を刻印する卓上のマシーンを通し、何も見ずに運賃を告げ、客が出した金額から瞬時に暗算して釣銭を渡していて、子供心にスゲーなプロの技だ・・・といつも感心していました。改札でも入挟という言葉が今もある通り、切符にハサミを入れていました。客が通らない時でもずっとカチカチ連打して間合いを取っていました。硬券だとガチッとデカい音がしますが軟券だとカチンという軽い音に変わっていました。当然ラッチ付近は切り屑だらけでした。ところでこの翌日、つまりJR発足の記念すべき日にも記念に日付の入った切符を求めるべく関内駅に行っていました。どういうことか硬券は販売されていなかったのか、それとも売り切れだったのか、自動券売機で入場券を購入しました。が・・・・



 熱転写なので30年も経つとこんなんなってしまいました。興味のあったベースの紙の印字、動輪と「JNR」と「こくてつこくてつこくてつ・・・」は、JRになってもそのままだったのことが印象的でしたが、同じ関内駅でなくとも将来記念に遺すためにはちゃんと硬券を買っておくべきでした。



 今は無き横浜市営地下鉄2000形、舞岡〜戸塚の開業記念列車で下永谷駅での撮影と思われます。1987年5月のことです。戸塚でようやくJRと結びついたことにより格段に利便性が向上しました。その前の終着、舞岡まで開通したのは遡ること2年前の1985年。その終点舞岡駅周辺は当時、畑と宅地がポツポツあるだけの横浜市内からするとドがつくほどの田舎だったわけで、コンビニすらない状態でした。舞岡〜戸塚はたった1駅。なぜこの区間の開業が遅れてしまったかというと、戸塚駅直前にある柏尾川直下のトンネルを掘削するのに時間を要したからということ。なので中途半端な舞岡まで暫定開業したとのことですが、その舞岡も当面は旅客需要が見込めないので、列車の3本のうち1本だけが舞岡行き、そのほかは上永谷折り返しでした。舞岡行きは、現在の日中の運転間隔が7分なので、21分ヘッドで運転されていたことでしょう。よって上永谷〜舞岡2.0kmは単線運転で、上下列車とも現在の横浜方面行の線路を使って折り返し運転していました。
 この写真はたぶん開業日に乗車しに行った際の一コマで、何本か待って記念列車を撮影しました。いままで単線での営業だったため立ち入りができなかった開業したばかりの戸塚方面のホームからわざわざ撮影しました。



 と、こことはあまり直接関係ないのですが、先日引っ越しの整理をしていたらこんなものが出てきたので紹介します。



    

 1984年、横浜市営地下鉄2000形デビューの記念乗車券です。この話は「上永谷車両基地見学」の回でもご紹介しましたが、30年以上経った現在でも近未来的なデザインですね。さて次は・・・



 根岸線から高島貨物線に下ってきたタンカー列車です。現在ここは地下化されておりこの光景は過去のものになってしまいました。線路の上を横切るのは首都高速、後ろは根岸線の線路です。機関車は貨物専用のEF65 522号機。500番台の最末期は535と、現在東日本所属になった501が有名ですが、どこか面構えが違います。ツララ切りのようなヒサシが特徴的なのに加え、スカートがやけにすっきりとシンプルですね。EF65 522。何者なのか? 調べると高崎機関区所属。電気機関車らしからぬジャンパ線などの無いスカートは、かつて事故にあい復旧した際に省略してしまったとのこと。除籍は1994年。この写真から7年間活躍したことになります。ところでこの写真、踏切から撮影したと思いますが、堂々反対方面の線路上で撮影しているように見える。今でいうところの「炎上写真」になるんじゃないかと次の画像を見ると、納得しました。



 今回もまたカメラがトラブルを起こし2重露光になっていますが、先ほど撮影した反対方の線路は使われていなく、踏切の前後の線路が切り取られ、この地点まで安全に撮影できたのでした。さて気になる2重露光のこの写真ですが、こちらも同じ500番台ですが、ヒサシの無い一般的なカマです。そしてこの写真のもう一枚露光されている画像は・・・なんかクモヤ143をあおりで撮っているように見えませんか? ここでどのくらい撮影していたか分かりませんが、現在と同様、それなりに貨物の本数も多く、上下2本の列車を撮影したのち、チャリンコを漕いでさらに進みました。次の目的地は旧横浜機関区。数年前に使われなくなてしまった立派な扇形の機関庫とターンテーブルが残っていました。現在の場所でいうと国道1号線と新高島駅の間で、のちに学校とかが立ったり商業ビルもできていて往時の面影などまったくありませんが、当時は国道1号線の車道ぎりぎりまで機関庫の建物の壁がありました。自分はある秘密の地点から中の様子を簡単にのぞけることを知っていたのですが、現役でないから面白くないと写真に残してなかったことが大変悔やまれます。のぞき見した横浜機関区からさらに北進し、次は東高島駅に到着です。現在はただの複線→単線に変わる信号所になっていますが、このころはまだ貨物の発着はもちろん、ここから延びる専用線などもあっていつもにぎわっていました。



 トラとかホキのそばでP型重連単機が待機していました。しばらくこの重単が動き出すのを待ってみたり、貨物列車の本線の通過を撮影しようと粘っていましたが、この写真が最後のショットでした。今回はこれで終了。またこのような機会があれば、置き忘れたスキマ写真を公開してみたいと思います。