1986年 日本国有鉄道最後のシーズン 奥多摩乗りつぶしの旅。

1986.11月頃

 小学生当時、自分の学年には鉄道好きの友達が3人ほどいた。やたら時刻表、特に旅客運賃の算出に詳しく、終焉間近のチャレンジ2万kmとかやっていたT君。相鉄と小田急を溺愛するあまり、近所には無かった相鉄ローゼンまでチャリでわざわざ買い物に行くE君。鉄道はあまり詳しくはないが家が金持ちのため、いつもNゲージのセットやフル編成のサロンエクスプレスなどを買い与えられ、我々に見せびらかしてきたスネ夫のようなS君。そして自分は貯めた小遣いでちっちゃい時刻表を買い、図書館でローカル線の写真集を借り、時刻表を見比べながらハァハァする妄想にふけっていた。でも我々の共通点は知識の競い合い、私鉄の解説書ともいえるヤマケイ私鉄ハンドブックを手に入れ、その鉄道会社の全形式のスペックを全て暗記したり、E君が小田急と京急の駅名を全部暗記したといえば、対向してT君とオレは東海道線の駅名を大阪まで覚えたりしてその技術に磨きをかけていた。余談だが、30年近く経った今でも、京急、東急、小田急、相鉄、そして東海道線の駅名は忘れることなく暗唱することができ、脳の一部の機能をこの駅名暗記に使ってしまっていることが勿体無く思える・・・。

 そんな呑気な小学生時代、オヤジを口説いて中古のカメラを買ってもらった。たしか¥3000くらいだったかメーカーはローライ、38mmで生意気にもf2.8の明るさのレンズを備えているものの、もちろん巻き上げ、ピント合わせはマニュアル。現代では禁断の水銀電池の電源によって光量に合わせて絞りが替わるだけのシンプルなやつだった。そいつに今はもう誰も呼ぶことは無いASA(アーサ)100=今で言うISO100のフィルムを詰めて大切に1枚1枚シャッターを切っていた。当時24枚撮りフィルムが¥500、現像料が¥500、プリント代が一番安いところで1枚19円、焼増しが\30くらいとかの時代であったので、小学生の小遣いでは一撮入魂をしなければならなかった。

 そして買ってもらったカメラを最初に試そうと決めたのはまだ乗ったことの無かった青梅線。1人で行くのもなんだからと同じクラスの「みっちゃん」を誘った。なぜ例の3人を誘わなかったというと、3人ともそれぞれの偏った趣向が強すぎて、いつもどこかに出かけると必ずケンカになっていたので、非テツである一般人種の「みっちゃん」に白羽の矢を立てたのだった。当然みっちゃんは最初から乗り気ではなかった。つまらなそうな彼を引き連れて、とある日曜日奥多摩方面へと向かったのだった。

 その年開通したばかりの横浜市営地下鉄の新横浜駅から国鉄横浜線の103系に乗換え、八王子を目指す。現在と同様、当時も何本かに一本は橋本止まりの電車があり、強制下車させられた橋本駅ホームに降り立つと、向かいのホームに相模線のキハ30が出発を待っていたので、何となく撮影。当時は日本の果てのローカル線の情景に洗脳されていたので、通勤仕様のキハ30系列には全く興味が無かったのだが、今こうしてみるとこの後の時代、相模線は全国の地域カラーの先駆けとなる青帯色になり、さらに数年後には電化もされて今に至り、何気に撮影した日常の鉄道風景って大切なんだなと、よくよく思う。




出発を待つ相模線タラコ色キハ30、4連。よくみると反対の先頭車は新塗色になっている。
1986.11月頃   横浜線  橋本

 橋本からやって来た八王子行きは超満員だった。当時はたしか横浜線は丘陵越えの区間だけ単線になっており反対の上り線の合流を楽しんだあと、八王子に到着。こちらもタラコのキハ30が待っていた。




前面強化タイプのキハ35。八高南線が電化されるのはこの10年後だ。
1986.11月頃   八高線  八王子




拝島に到着。今乗ってきた編成の後ろは登場したばかりのキハ38。唯一の冷房車だった。
1986.11月頃   八高線  拝島

 拝島で降り、本日の目的である青梅線に乗り換える。しかしその前に五日市線も乗ってみようということになり、103系に少しだけ揺られて武蔵五日市へ。現在はモダンな高架駅になっているが、当時は地平駅で古い駅本屋がある地方にどこでも見られたローカルな終着駅だった。折り返しのあいだ、誰もいないガラガラの車内でミッちゃんと吊革を鉄棒代わりにしぶら下がって遊んでいると、近くにいた家族連れの小さい子供が「ボクもあれやりた〜い!」と我々を指差し泣き出した。その子の母親は抱っこしてその坊やを吊革につかまらせた途端、未成熟な腕はその子の体重を支えきれず、鈍い音を立てて真っ逆さまに床に落ちたのだった。蜂の子をつついたように大泣きする子供。するとその母親は我々に向かって「あんたたちが変なことやるからこんな危ないことになったんじゃないのー!!」と烈火のごとく怒りはじめ、その母親も泣き出してしまった。あまりの火病ぶりに自分とミッちゃんは怖くなりその場を逃げ出し、次の列車に乗って拝島へ戻ってきた。そんなこんなで動揺を隠せない我々二人はいよいよ青梅線103系に乗換え奥多摩を目指す。元私鉄で開業した青梅線の駅間距離はすさまじく短く、こまめな停車を繰り返しながら我々を山奥へといざない、終着、奥多摩駅に到着した。




後ろを振り返り撮影。ますます山深くなる沿線。
1986.11月頃   青梅線  車内から




白丸と見える。紅葉も美しかった。
1986.11月頃   青梅線  白丸




今もほとんど佇まいは変わらない奥多摩駅舎。右のニッカポッカの女性に時代を感じる。
1986.11月頃   青梅線  奥多摩

 駅前を少し散策し再び帰路の電車に乗り、また退屈な旅が始まった。みっちゃんはいつの間にか眠りこける一方、自分は嬉々として対向列車や景色を撮影したりして全く飽きることは無かった。その後は往路と同じように拝島と八王子で乗換えたのだと思うが、残念ながら記憶に全く残っておらず、新横浜で撮影したと見られる、今は亡き横浜市営地下鉄1000形の写真がフィルムの最後に焼き付いていた。




201系。当時は103系のほうが多かった気がする。
1986.11月頃   青梅線  車内から




引退する20年前の1000形の姿。柱の注意書きから当時は地下鉄駅構内でも喫煙できたようだ。びっくり。
1986.11月頃   横浜市営地下鉄  新横浜