【小さな旅】 黎明期の「写るんデス」で小海線、上信電鉄

1986年8月

 小学校高学年だったころ、なぜかボーイスカウトに所属していたことがあった。当時実家の隣家に同じ年頃の「やっちゃん」という男の子がいた。その「やっちゃん」がボーイスカウトに所属していたので、彼の母親が、私の母親に薦めて入団させらたらしい。自分の意思はほとんどなかったと思うのだが、毎週日曜になると近所の公園や公民館で何らかの活動を行っていた。その中でも特に年間で最大行事ともいえるのが、夏のキャンプ合宿だった。すでに入団して3年経っていたが、この歳になると上部クラスに自動的に昇格することになっており、今までの班長だとかリーダーという肩書は消え、ただの下っ端に成り下がった。その下っ端、カースト最下層の人間が4泊5日のキャンプに先輩方と参加するのである。場所は八ヶ岳山麓。上下関係は絶対である組織。それは今も鮮明に覚えているほど過酷な5日間だった。台風の夜、テントが水没しないようにと見張りの番、遠い沢まで水汲み、その他雑用、先輩のパシリ、及びサンドバック・・・。それに増して自由が許されないという精神的拘束も激しく、事実、同期で2日目くらいで脱落していった者が数名いた。
 そして最終日。野営地からの帰還バスを降り地元に帰ると、待ち焦がれた自由を与えられた解放感がとにかくもう半端無かった。前日までの過酷な試練、そして今この幸福な瞬間のギャップをただ楽しみたい。という目的だけで旅に出ることにした。

 旅って言っても小学生の時分、行動は限られているので、親に「明日ばぁちゃんちに行きたい」とせがみ、群馬県にあるそのばぁちゃんちに大迂回して出発することにした。そして翌朝、新宿駅にいた。しかしその新宿駅に着いた途端、カメラを持ってくるのを忘れてしまったことに気が付いた。といってもその「忘れた」は少し意識してやったことで、何故ならその年発売されたばかりで巷で話題となっているレンズ付きフィルム=使い捨てカメラ=いわゆる「写るンです」を試したかったのだ。新宿駅のキオスクで購入。¥1000くらいだったと思うが、カメラを使い捨てなんてどんな構造か、非常に興味を持って開封してみると、現在の使い捨てカメラとは異なり、紙箱にくるまれた長方体の物質だった。固定焦点、固定露出、ファインダーはただの穴。リサイクルのシステムなど分からず、ただただ「勿体ないな・・・」と思ったのと、こんなのでまともに写真など撮れるのだろうか?と疑念を懐きながらもホームに上がって、これから自分の乗る列車を撮影などしてみたりした。




新宿駅にて出発前の正調国鉄色183系「あずさ」。  隣の側線にはワムがいる。現代では信じられない光景。

 使い捨てカメラ(フジフィルム呼称ではレンズ付きフィルム)は現在30周年を迎えたそうだ。そして30年経った今、そのチープな造りからくる何とも微妙な出来栄えの写真が味わい深いとして、カメラ女子を中心に静かなブームとなっているらしい。写るんですを機材として使用したプロのカメラマン達が写真展などもやっているらしい(!?) スゲー世の中だ! 自分としては写真店に勤めていた10年以上前、フィルム期限切れ間近の怪しいメーカーのブツを大量に仕入れて3個パックにし、ワゴンセールと称し爆売りしていたころが懐かしい。デジカメも台頭し始めていたころだったのだが、まだシェアは銀塩のほうが大きく、一般人が普通に記録用として買ったり、業務用に大量に消費されていた時代だ。このころがピークだったのか?・・・

 しかしこの回で登場する黎明期の使い捨てカメラのフィルムには一般的な35mmフィルムではなく110フィルムが使われていた。ワンテンとかポケットフィルムとか呼ばれていたカートリッジに入った幅16mmの小さいやつだ。フィルムには一コマごとに小さな穴が下部に開いており、巻き上げるとその穴がカメラ側のピンに引っかかって、一コマ巻き上げ完了となりロックがかかった。現像料は普通の35mmフィルムと変わらなかったと思うが、プリントは割高だったと記憶している。しかしそのプリントもフィルム面積の極端に小さいサイズであるので画質は粗く、L半はおろか普通のサービスサイズでもザラザラの粒子が際立った。

 このページに掲載している写真は、写真店勤務当時、所有している画像のデジタル化を進めるなかで、どうしても110→データにはできなかったがため、110フィルムをラボに出してプリントし、スキャナで取り込んだものだ。



 旅の話に戻ろう。記録からするとどうやら小淵沢に到着したようだ。途中「あずさ」の記憶が全く無いのだが、小淵沢駅に降りたところから記憶が再スタートする。そういえば現在では東日本管内で当たり前のように投入されつくしたキハ110の最初の投入はここ小海線であり、1991年のことであるが、このころはキハ58の時代。時折58に混じってキハ52も見かけたかと思うが残念ながら記録には残していない。そしてまた「清里ブーム」もまさにこのころが絶頂であった。都会の出で立ちのお兄さんお姉さんで列車は超満員になり、やがて出発。現代のキハ110の軽快な足取りと違い、今にも止まってしまいそうな速度で国鉄型気動車は満員の乗客を乗せて標高を稼いだ。そして小淵沢を出て最初の駅、甲斐小泉に到着した。実は昨日まで滞在していたボーイスカウトのキャンプ地は、この甲斐小泉駅近くの森の中だった。確かキャンプ場とかではなく本物の森を切り拓いて野営地を設営した。当時の組織の関係者の土地だったのかも知れないが現在やったら大問題になるはずだ。そしてその野営地は駅近くとは言えここからは数キロ離れていたのだが、合宿2日目、我々はとある訓練をさせられた。「伝令」と呼ばれる訓練の一環で、深夜の森の中の登山道のような獣道を、その野営地から甲斐小泉駅を目的地として懐中電灯だけを頼りに、ペアになった相方と一緒に森の中の目標物と数少ない情報だけでゴールを目指す。というそんな訓練だった。リアル肝試し! もう一人の同期と真っ暗な樹海の道なき道を2時間ほど歩き、駅に到着した時は疲労と恐怖心からの解放で、腰を抜かしたことを憶えている。しかしもう今日は自由の身。なんて清々しいんだ!と子供心に高揚感を押さえられなかった。




その甲斐小泉駅で小淵沢行きと交換。かぎ型の構内通路は今も現役であり、ネットに上げられている写真からこの駅だと判明した。

 清里で都会のお兄さんお姉さんたちはほとんど降りてしまい、車内には数人の地元の利用客と観光客が残され閑散としていた。鉄道日本最高所地点の通過を確認。そして標高最高駅の野辺山駅を見届けると、前日の疲れもまだ取れていないせいもあってか、爆睡してしまい、いつしか終着小諸に到着してしまった。小諸からは信越線上り普通電車で軽井沢へ。もちろん初の横軽だったのでこの旅、最大のイベントとしてEF63の連結を見学したり、急勾配を下っている実感に感激したりしているうち、横川を過ぎいくつか進んだ松井田駅で電車を降りた。ここからはバス移動である。信越線と山を挟んで並走する上信電鉄の上州富岡行きのバスを待った。やってきたのは小さなマイクロバス。自分一人だけを乗せ、次々に停留所を通過。途中車内から見た見事な夕陽に感動したりして、やがて上州富岡に到着するころにはもう外は暗くなっていた。最初から最後までたった独りだけのために運転してくれた運転士に感謝を伝え、下車。上信電鉄に乗り換えた。目的地は父親の実家。上信電鉄の終点、下仁田だ。駅から父の実家まで徒歩10分。当時存命だった祖父、祖母に歓迎され、また従弟と再会を喜び合い、自由一日目は終了した。

 翌日は親戚の家族と高崎にあるプールに遊びに行くというので、出発前、消費しきれていなかった写るんデスを持って上信電鉄の線路まで行ってみた。家の目の前の国道を挟んですぐに線路だったので、列車の来ない間は家に戻りテレビを見たりして午前中を過ごしていた。




今も現役、軽トラみたいな自社発注車両6000形。田舎の鉄道にオシャレなデザインが斬新過ぎた。




こちらも現役250形。他に在籍していた1000形も6000形も、オリジナルのカラーリングであり、現在の広告電車とは印象が全く違う。




下仁田駅全景。西武から譲渡された100形が出発するところ。当時は石灰石の輸送も盛んで大量のトラが留置されていた。

 最後の写真は従弟と一緒に駅に行った。駅には昔ながらの貨物ホームがあったり、高崎方には積み込み施設があったりして、非常に「濃すぎる」空間であった。従弟は知り合いなのだろうか作業していたオッチャンに慣れた様子で話しかけ許可をもらい、空になったトラに載せてもらったり、また貨車についているブレーキを操作してエアーを解放しブレーキ緩解など遊ばせてもらった。

 小さいころの両親の田舎の実家の記憶。毎年楽しみだったはずなのに、そういった帰省旅行はいつから行かなくなったのだろうか。最後に下仁田に行ったのは社会人1年目。この1986年の訪問ぶり。ばあちゃんが昏睡状態に入る直前のある日。最期のお別れをするためだけにバイクで独りで行った。ばあちゃんはもういろんな機械から延びるチューブに繋がれたまま、かろうじて意識がある状態だった。何を話したか全く覚えていないが、10分ほど会話をして病室を出て、なぜか駅に向かった。夕刻の下仁田駅の待合室でただひたすらに、ボーッと、考え事をするをする訳でもなく、ばあちゃんとの想い出を顧みる訳でもなく、ただただ時を過ごしていた。「そろそろ帰ろう」 ふとそう思ってバイクに跨り下仁田の街を後にしたのを最後に、かれこれ20年が経とうとしていることに、この記事を書きながら思い出した。