横浜市営地下鉄の車両基地見学に参加!

1984年8月

 本当にごく僅かの需要しかないと思いますが、横浜市営地下鉄の昔の画像です。国鉄とは全くの無関係ですし、興味ない方が多数と思われますが、当時を記録していたので公開します。

 21世紀の現在、ブルーライン、グリーンラインなど2路線の横浜の地下鉄。延長に延長を重ね、いつの間にやらブルーラインこと1号線、3号線は日本一長い路線延長の地下鉄になったとか。そのブルーラインも開業当初の1972年は伊勢佐木長者町〜上大岡のわずか5.2kmの路線でした。接続する他社線は上大岡で京急のみ。起点が伊勢佐木長者町は古くからの横浜の中心部ですが、なぜ国電も通っている関内に接続していなかったかというと、将来の延伸を見越すと、北上してきた路線をグイッと90度、西に進路を曲げなければならず、その急カーブ、しかも地下2層の工事の遅れがあったからとのことです。その後、ようやく国電の関内、横浜など中枢の駅まで連絡するのはそれから4年後の1976年。ひとまず横浜〜上永谷の区間が完成し都市内の交通機関として成り立つわけです。
 
 今回の舞台である1984年夏、突然小学校の親友であるTに「上永谷の車両基地の見学会に当選した!」との知らせを受けたのは終業式直前だったと思います。地下鉄よりも地上の電車しか興味なかった自分としては、ヒマつぶしに行ってみようか、くらいにしか思いませんでしたが、身近にあって頻繁に利用していた横浜市営地下鉄。その車両基地見学ができるとあって、その日が近づくにつれて楽しみになっていました。




 そういえば先月、1984年6月、開業以来ずっとその役割を担っていた1000形ばかりだった横浜の地下鉄に、新たに2000形が登場しその仲間に入りました。見飽きた1000形を少しシャープにした左右非対称のデザイン。側面もコルゲートが省略され洗練されたイメージとなり、早速運用開始初日、Tの他、3人の友達を連れて初乗りに出かけました。まだ2000形は1編成しかなく、近所の駅で粘って待ち続けました。ところで当時、横浜市営地下鉄はホーム入線の際、警笛風の電子ホーンを鳴らして滑り込むのがお約束でしたが、どのくらい待ったのか、やがて聞き覚えのある音と全く違った軽やかな電子ホーンが聞こえ、ようやく2000形が登場しました。早速乗り込みます。まず新車の匂いがします。そして何より涼しい! そう、当時の地下鉄は非冷房が当たり前の時代でした。都心の地下鉄と直通運転する路線でも、地下鉄区間に乗り入れる際、「これから地下鉄線内に入りますので冷房を切ります。お近くの窓を開けてください」という放送が流れるのが一般的でした。この2000形は横浜市営地下鉄最初の冷房車だったのです。やがて出発。チョッパ制御ならではの加速時の「ビィー」という音が未来的です。それから22年後の2006年、ワンマン運転とホームドアの運用開始に対応しなかった2000形と1000形は同日に引退。1000形は動態保存もされているらしいのだが、2000形は足回りや主要部品などを後継の3000形に譲り、全車解体の運命をたどったのが残念です。

 そんな2000形がデビューして間もない1984年夏。友人Tと車両基地見学に参加すべく、最寄の上永谷駅に向かいます。指定された時間に上永谷駅改札前で参加者は集合。係員に引き連れられぞろぞろと徒歩で移動し車両基地へ向かいました。




当時唯一の地上区間であった終点上永谷駅。次の延伸、舞岡への開通はこの2年後だ。
1984年夏   横浜市営地下鉄1号線  上永谷

 上永谷駅を出発ししばらく団地の横を通り、いよいよ車両基地に到着しました。まずは事務所で説明と質疑応答の時間。参加者は家族連れや我々と同じ世代か少し上の中学生くらい。「地下鉄は電線(架線)が無いのにどうして走るんですか??」のように、我々からしてみたらあまりにレベルの低い質問をする参加者にTと2人、少しイラ付きながらも、今日のために考えてきた積年の疑問をぶつける時がついにやってきました。

「開業当初は、一体どこで車両検修を行っていたか?」 だ。

 1972年に第一期として伊勢佐木長者町〜上大岡が開通。全線地下のため地上に出る区間は無かったのです。初めて唯一の地上駅と車両基地のある上永谷まで開通するのはそれから4年後の1976年。その4年間、大掛かりな全検は無いかも知れないですが、整備、修理、検査は行う必要はあったことでしょう。それをどこでどうやってやっていたか、です。我ながらいい質問です。その疑問に係りの方は丁寧に、そして驚愕の答えをくださいました。

「第二期の上大岡〜上永谷開通の1976年以前に、すでに上永谷の車両基地は完成していました。なので既存の開通区間にあった立坑からクレーンで車両を吊って、トレーラーに載せて上永谷まで運んでいました。」

 今考えるとあり得ないと思いますが、確かにそうおっしゃっていたことは衝撃として今も記憶に鮮明に覚えています。確かに、初期の開業時、車両の搬入は蒔田駅付近にある立坑から吊り下げながら地下に入れたというのは横浜市民にとっては当たり前の歴史の事実として知られています。答えにあった立坑が蒔田駅のものかどうかは聞かずじまいでしたが、恐らく間違いないでしょう。でも当時3両編成だったとは言え、立坑の上は大幹線道路である鎌倉街道。深夜でも何十トンもある車両を3両運び入れるのはさぞかし大変な作業だったことでしょう。疑心暗鬼になりながらもそれ以上は質問せず、いよいよ車両基地の見学のため移動を開始します。その前に何度も「くれぐれも第三軌条には触れないで下さいね」と注意を受けましたが、小学生ながらにさすがに一般人を受け入れる見学会で750Vを流しっぱなしにはしないでしょう、と思いながら屋外に移動しました。するとそこにはデビューしたばかりの2000形の姿が。恐らくこの見学会のために2000形は運用に入れずにしてくれていたと思います。早速撮影開始です。










1984年夏   横浜市営地下鉄1号線  いずれも上永谷車両基地

 記憶にはありませんが、最初のカットでは2000形の単独の留置になっていますが、その後1000形も隣に並べられ撮影会となったようです。屋外撮影の後、いよいよ検修庫内に移動です。検査中と思われる1000形が2本。参加者一人一人ピットの下に潜り込んでみたり、車輪研削の鉄粉をお土産にもらったりした憶えがあります。




1984年夏   横浜市営地下鉄1号線  上永谷車両基地

 庫内の見学のあと基地の一角にあったもう一つの車両庫に案内されていきました。すると見たことも無い車両がそこにいたのです。




1984年夏   横浜市営地下鉄1号線  上永谷車両基地

 1000形に良く似たマスク。でも貫通扉が無かったり屋根回りの仕上げが簡素だったり、なんだか1000形の赤ん坊のようです。説明によると、この車両はバッテリーロコで深夜などに線路の巡回などに使用するとのことでした。確か箱形の車両ではなく、後ろはボンネットで横から見たら軽トラのような作りだったと思うのですが記憶が定かではありません。車両番号は「1001」とありますが恐らく正式な車籍は無いのでしょう。ところで横浜市営地下鉄は車両の付番は独特の方式を採用しています。例えば、「1055」という車体番号の場合・・・

 0 5 

   形式      編成番号   北側から何両目

 という感じです。編成番号については、この法則は形式が変わっても通番でカウントされ、件の2000形の第一編成は215●で始まっています。つまり在籍した1000形の14編成目の後に登場したということで、「2001」は存在しません。これは平成になって登場する後継の3000形でも適用されています。このバッテリーロコの「1001」とはまさに便宜上の付番だったと思われます。

 これにて1984年上永谷車両基地見学は終了です。20年以上保管されていた当時のネガフィルムはカビと劣化が進み、何点か補修したものもあります。記憶も曖昧なところもありますが、当時の雰囲気をお伝えできればと思い、UPした次第であります。