大人の散歩  上野動物園懸垂線で楽しい午後のひと時

2019.9/20

 なんだか・・・この齢になると、過去の思い出の場所に久しぶりに行ってみたいという衝動に駆られることがある。死期が近づいているんだろうか? 今日もそんな日。仕事が休みだったので昼前にズボラに起きてみると外は快晴だったため、とりあえず着替えて最寄り駅を目指した。目的地は自身〇年前まで通っていた都内の大学。あまりにも勉強が好きすぎて5年間も在籍した学び舎である。電車にしばし揺られ最寄の駅に到着し改札を出、大学を目指すが、あまり当時の記憶にこの風景は残っていない。

 というのも実は電車で通っていたのは入学から1か月程度。1年生の5月の連休も過ぎたある日、天気もよかったので、電車はやめて、ふと当時の愛車であった125ccのスクーター「スペイシー」で大学まで行ってみると、なんと電車通学の所用時間の半分ほどで到着することが出来たのだ。高速も走れない原付二種でさえこの快速性。もう翌日には定期券を払い戻し、雨の日も、雪の日もバイクで都内へ通い続け、その後自動二輪(現:普通二輪)を手に入れてからは、第三京浜でさらに所用時間を短縮し、毎日VIPな通学をしていた。第三京浜の当時の通行料金はたったの200円。帰りは一般道を走って節約もしていたが、それでも燃料代含めて定期代よりも遥かに安かった。今は亡き回数券も使っていた時期もあったが、ETCなどない当時、5万円のハイウェイカードを買うと8000円も得だったのでそれを毎日使っていた。

 さらに遡ること高校時代も、入学当初は電車通学をしていたのだが、駅まで徒歩20分というのも億劫になって、これまたGW明けになると片道40分かかる自転車登校に切り替えた。駅から学校までも徒歩15分もかかっていたので、これでも電車通学より大幅に時短になった。毎日途中のくたびれた自販機で80円の500ml缶のチェリオを飲みながら、カセットテープのウォークマンでサザンとかTMN、森高千里をBGMにママチャリで国道を疾走したのはいい想い出だ。

 さらにさらに、新卒で入社した前職の会社でも、やはり1か月で電車通勤に嫌気が差し、バイク通勤を開始。オール一般道だったがこのルートは朝でも流れが良く、遅刻など無縁であった。現代ではバレたら懲戒ものの定期代をもらいつつガソリン代に回すという非道っぷり。給料も低かったからか上司はみんな目をつぶってくれた、はず。そして現職では出退勤時間が早朝、深夜になることから自家用車通勤が一般的であるため、公共交通機関で通勤通学をしたのは生涯で合計3ヵ月程度、という珍しい?人生を歩んでいる。

 とまぁ前置きが長くなったが、当時と随分と変わってしまった大学構内を巡って懐かしさに浸り、満足して駅へと戻る道すがら、激安の定食屋でレバニラ定食と中ジョッキを注文。外はまだ残暑も厳しく、勢い2杯目も開けてしまった。さて、どうするか。まだ昼過ぎであるし酒も入っている体なので楽しいことをしたい。そう思いひらめいた行き先は上野。近々運休となる上野動物園モノレール。正式名称は「東京都交通局 上野懸垂線」を新たな目的地とした。

 日本初の営業用モノレールとして知られる当路線は、東京都交通局が都電に変わる次世代の乗り物の研究の位置づけとして、1957年開業という古い歴史を持つ。0.3kmという短い営業キロと、動物園内を結ぶモノレールということで、このような施設にありがちな遊戯施設と見なされがちだが、一部で公道を跨ぐ区間があるため、それ故にれっきとした鉄道事業法による運行である。しかし設備、車両の老朽化に伴い、来月10月末を最後に休止されてしまうことが決まっており、記念にと訪問してみることにした。我が人生では遥か大昔、就学前の年齢だったと思うが、家族でパンダを見に行った帰り、当路線2世代目であるM形に1回だけ乗ったことがある。それはそうと地下鉄を乗り継ぎ上野到着。あの幼児は数十年後、エキナカで缶ビールを買って、公園入口の喫煙所でモクモクしてから、西園入口に到着。まずは動物園の入場券を購入した。モノレール両端の駅はいずれも施設内にあるため動物園の入園料を支払わないと乗車できないのである。というわけでいざ入園、すでにベロベロ状態だ。



 かわいい冬毛の雷鳥タンの入場券を手に、家族連れや幼稚園の遠足集団に混じって、赤ら顔の中年男性が入園。こんな思い付きでやって来ただけなので、当然一眼レフなども持ち合わせていなく、手ぶら散歩のお供、スマホのカメラだけが本日唯一の撮影機材となる。西園駅まではゲートから少し離れており、道中の池や飼育施設のお友達が酔っ払いを暖かく迎えてくれた。



 ペリカンの群れ。でっかい鳥なので動きは機敏ではないが、ネット上でペリカンが鳩を丸呑みする動画を見た覚えがある。見た目によらず狂暴なのかもしれない。酔っ払いが喰われないように気を付けて進むと・・・



 ワオキツネザルとのこと。「WAO!」ってなんやねんと思いつつ、さっきのペリカンはより弱そう。オレでもこいつなら勝てる気がしてくる。



 ケープペンギン  南極とかで生息するイメージだが残暑厳しい9月の東京でも活動できるのは、暑さに強いからなのだろうか。さて意外と楽しめた駅までの道すがら、目の前にモノレールの軌道が見えてきた。そしてその軌道と並行して、公道を跨ぐ歩道橋があったので登って車両を撮影してみたいと思う。運航休止まであと一か月チョイということもあって、こんな平和の象徴のような動物園の構内に、なんと物騒なハスキーと銀箱を携えた撮り鉄数名が、チビッコたちの生暖かい視線を背中に受け、列車を待ち構えていた。





 やっぱりどうしても所詮スマホなのでレリーズのラグはどうしようもない。旧式のアンドロイドなので連写機能も無く、震える指先で仕留めたのがご覧んの結果だった。モノレールは結構頻繁にやって来るので、もう少し待ってリベンジ撮影をしようかとも考えてみたが、当然動物園の閉園時間に合わせて17時前には今日の運行は終わってしまう。現在時刻は15:30過ぎ。片道乗ってみたり、別地点で動画撮影もしたいと思っており、加えてこの酩酊状態じゃ何度チャレンジしても結果は同じになるだろう。ということで諦めて西園駅へ向かった。



 西園駅を出発するモノレール。駅周辺には飲食店や土産物屋なんかがあり、なかなかの賑わいだ。自動券売機で150円の乗車券を買い、いよいよホームに上がってみた。





 ホームには軌道を支える支柱に掲げられていた銘板。柵外にあったので駅員さんに声をかけ撮影。1957年竣工。62年も前からここに在り続けていることに歴史の重みを感じてしまう。車両は現在で4代目とのことだが、こうして歴代の車両たちも支えてきたのだ。早速乗車してみよう。



 園内の乗り物ということもありピンクを基調とした派手な内装。乗車時間が短いことから座席はクッションの無いプラ製のベンチ。それも展望を楽しむ目的から外側を向いていることも面白い構造だ。小ぶりな車体のため人間が一人乗り込むごとに、普通の鉄道車両にはないフワッと少し揺れるのも独特である。いよいよ出発だ。プラグドアを折りたたんでゆっくり加速。JR東日本の特急電車と全く同じミュージックホーンを鳴らしながら構内を出発。スピードは20km/hも出ていないほどだが300mという距離もあり、1分半で終着の東園駅に到着した。





 このようにホームらしきものは無く、地べたから直接車両に乗り込むというバリアフリー何のその、の駅構造。西駅には車いす用のエレベーターもあったから必要な時はスロープが登場するかもしれない。さて最終便まであと2往復という時間になって来たので、東園側から場内に進入する列車の動画と写真を撮って終わりにしようと思う。



 うぅ・・ やっぱりうまく行かねぇ。かと言って休止まであと1か月あるが一眼持って再訪しようとは全く思わなかった。ところでこのモノレールの走行設備がなかなか面白いことに今更ながら気が付いた。上記を拡大したのがこちらだ↓



 ゴムタイヤの走行輪と頼りない案内輪を収めた台車同士がダンパーで連結されている。この上野モノレールは懸垂式ではあるが、同じ懸垂式である湘南モノレールや千葉都市モノレールで採用されているサフェージュ式は、箱状の軌道内に台車が収まっているため、建設費が高くなり分岐器の構造が複雑になるといった弱点がある反面、軌道面がその箱内にあることから天候の影響を受けにくく、勾配に強い性質を持つ。一方でこの上野懸垂式は軌道設置は簡易で済む一方、どうしても車両を吊っているアームが片持ちになる制約があり、国内での普及は進まず独特の物になったことから整備にコストがかかることになり、今回の休止が決まったのだった。



 こちらは下から。地面から生えた橋脚がカーブしたその末端に、切り欠きが入った鋼製の桁が乗っているだけの究極にシンプルな構造。その桁の下部にはどっちかがプラスでどっちかがマイナスであろう2本の鋼体架線。電圧は600V、車両の電動機の出力は、現在の一般的な通勤電車の約1/20程度である7.5kw。もし当時の東京都がこのモノレール方式を都市内の次世代交通として採用されていたとしたら、地下鉄の何百分の一の建設費でネットワークを広げていただろうが、輸送力は20m×10両の地下鉄車両には及ぶべくもなく、当時の人たちの先見性はあったのだ。と言う訳で充分に楽しめたお散歩だった。東園から上野駅まで歩き、通勤ラッシュの始まりかけた京浜東北線で帰郷した。

【後日談】
 この上野のモノレールは2019年10月一杯で営業を休止。東京都は同路線を活用させるべく次世代の乗り物で復活させることを発表。しかし検討を重ねた結果、休止から約4年後の2023年7月。復旧を断念し正式に廃止届を提出、国内唯一の方式であった上野懸垂式は絶滅を迎えたのだった。